下が最新記事になります、と言っておいて最新記事を書かないのもなあと思っていたので、あんまり見る人もいないかなと思うのでこっそりいろいろ書こうかと思います。

NHKの朝の連ドラ「純と愛」に関しては、ちょっと当初全肯定しようと思ってたところから着地点がずれてきてる感じはするので、また終わって考えてから書こうと思います。
今期のドラマは、どうやら「夜行観覧車」と「最高の離婚」が面白かったという評価のようですが、瑛太好きなのに最高の離婚は見逃しちゃって!夜行観覧車は最後まで見ましたが、なんつーか、面白いしエグいなぁ!とか文句言いながらも引っ張られるパワーとかあってほんと湊かなえさんは凄いと思うんですけど、殺伐としすぎてて、そこから誰かと話したい!ってなるような話ではないんですよね、「告白」とかも。
映像作品になった時、その映像作家さんの切り口がかっこよくて話題にはなったりしますけどね。
良かったにしろ、悪かったにしろ、そのドラマや映画を見終わった後で語りたくなる映画は、価値があるといつも思っています。
シベリア超特急だってそうですよ!
さて、今期そういう意味では、話したくなったドラマといえば!ちょこちょこ書いてましたが「泣くな、はらちゃん」ですね~!
はらちゃんは凄かった。これはドラマでしか成立しないという意味で、ほんとに価値あるドラマでした。
ついては、はらちゃんの感想を書きたいと思いますが、ネタバレはある程度しますので、ご注意くださいませ。
折り畳んで、ながーーーなが、物語の構造のあーだこーだをぐだぐだ書きます。
お暇でしたら読んでやってください〜。
ここ数回の、拍手にお礼が言えておりませんでした!!
拍手、コメント、ありがとうございます!
・3/24にコメントくださった方、興味を持って下さり、ありがとうございます!!お手元に届きますよう、願っております!!!
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ご存知ない方のために、はらちゃんのざっくりした説明を。
ある寂れた港町で暮らす越前さん。彼女はアラサーくらいの歳で、港町のかまぼこ工場で働きながら、母親と、ニートの弟と暮らしています。彼氏なんかいません。工場と家の往復です。
彼女は人に強く主張したりできません。キツい工場の同僚のオバチャンたちに雑な対応をされてストレスを溜めます。
そのストレスは、家に帰って描く漫画です。越前さんは、ずっと昔に断筆してしまった漫画家・矢東薫子先生の漫画が大好きで、そのキャラクターを使って日々の愚痴を書きなぐります。
私は誰の邪魔もしません、静かにしてます、なのになんで干渉してくるの?私の事はほっといてください…のような。
酒場でギターを持って愚痴るはらちゃん、お酒をすすめながら話をうながすマキヒロにあっくん、向こうで笑っている笑いおじさん、はらちゃんの愚痴に呼応して「殺すしかないね」と物騒な事を言うユキ姉。いつも同じ事が繰り返されているのですが…。
はらちゃんは、なんだかこの世界は暗いなあと思い、この世界の神様の機嫌がよくなればもっと明るくなるに違いないと考えます。そんな中、はらちゃんたちの世界に奇跡が起こり、はらちゃんはノートの世界から飛び出して、越前さんのいる現実世界に飛び出すことになるのです…
先に書いたように、なんではらちゃんがドラマでしか成立しないのかというと、まず、「漫画の中から三次元の現実世界にキャラクターが出てくる」というのを漫画でやるのは、実は直感的には分かりにくいということです。
過去漫画でそういう話が描かれてないわけじゃないですが、漫画から飛び出した人が描いてある漫画、を読んでいる三次元の私たち、よりも、漫画から飛び出した人が出ている映像を見ている私たち、のほうがより見た目も感覚も分かりやすいはずなんです。
そして、とにかく、主演のはらちゃんの、TOKIOの長瀬くんがほんと凄かった!
漫画のキャラが世界に飛び出してきて右も左もわからなくて、でも底抜けに明るいし世界は素晴らしいと信じてるっていう演技が、もう完璧でした!!かっこいいのにアホで、挙動が変で、ニカッ!と笑うなんて、ほんとに漫画のキャラか長瀬くんしか出来ないんじゃないかと思いますよね!
こういうキャスティングの妙みたいなことも、たとえば活字のメディアでは表現できないことの一つだと思います。
「はらちゃんです!」の言い方は、活字で読んだら千差万別ですが、長瀬くんのはらちゃんを見た人なら耳に響くと思います。
映像にすると、これが一択の正解であるということになってしまうのが怖いのですが(嗚呼!何をか言わんやビブリアをや!)原作のないドラマ用の脚本であって、たぶんキャストも最初から考えられて作られたそれ用の物語で、「漫画のキャラクター」という、刑事とか、医者と違ってなじみのない役を主演の役者さんが相当がんばって独特に演じていたりすると、これが正解だし、映像でしか味わえないな~と思うわけです。
これが映画だったらどうだったか、となると、ある程度出来上がったような気はしています。
ドラマで、ちょっと長さを持て余してるような回があったりしたので、全体をコンパクトに2時間に納めることとか出来ればイケる気がします。(工場長の一連のやつざっくりカットすら出来た気がしますからね)
ただ…映画だと、地味すぎる話なのではないか。私ははらちゃんはドラマだから見たんであって、映画だったら見てないと思う。
それと、ドラマっていう「毎週やるもの」感って結構大事だったりしませんか。日常感というか、スケール感ていうか、一週間開いてるその空気感が楽しかったり私はします。(逆手に取ったのが「24」だとして。)ほのぼのとした日常は、2時間でやるよりやっぱりドラマかなあ、っていう。
最近は「それ漫画でやれ」「映画でやれ」って思うドラマが多いですけど、はらちゃんの奇跡感ってそういう、全部の積み重ねだったりする気がしています。
さて、内容の話ですが。
初回は、宣伝のためか何かで生放送での告知とかがドラマの後についてました。
そこで主演の長瀬君が、「これから、はらちゃんはどんどん越前さんにアプローチしていきます!」みたいなことを言ったので、私はかなり仰天しました。
だってさあ、自分が描いた作品のキャラクターが外に出てきて自分にアプローチするって、なんか怖くねっすか?
自家中毒ぽいというか、近親相姦とまでは言いませんけど…
まあこれは、初回では『越前さんが描いている漫画』が『矢東薫子先生の二次創作』だということは明確にされていなかったので、過剰にそう思ってしまったわけですが。
言うたら、「オリジナルキャラクターで理想型な男の子を夜な夜なノートに描いてたら、ノートから出てきて私にアプローチするようになった!」というのは若干怖いけど、「タイバニのバニーちゃんがタイプでノートにバニーちゃん描いて愚痴らせてたらバニーちゃんが出てきて私にアプローチする」はまあまあファンタジーとして夢アルネ~だなってところですよね。
しかし、自分の描いたものが出てきて自分にアプローチする、いわゆる宮崎駿論でよく出る「主人公と異界のものとの恋」という物語の決着の付け方は、実はそんなにパターンないですよね。
1.はらちゃんが出て来て越前さんと結婚する。
→これだと登場人物に甘すぎて、人魚姫の足的な相当な対価を必要とするはず。
単に甘やかすだけのこれを採用する脚本家さんならちょっとどうかと思う…w
全力でこれやって世界水没させてドヤ顔してんのがポニョですけど。
2.越前さんが漫画の世界に行ってはらちゃんと永遠に幸せに暮らす。
→観客と同じ世界にいる人が、その世界を捨てて別の世界に行くというのは相当ショッキングです。
見てる人にショックが与えたいんならアリだけど、明るい話かと思って見てそれだとちょっとなー!
3.越前さんが現実世界で前向きになるのを確認して、はらちゃんは元の世界へ去る。
→これが一番現実的な決着の付け方だし、初回の過剰な越前さんの後ろ向き感からしてもこれっぽい。
でも、それにしちゃ越前さんとはらちゃんが異常に仲良くなりすぎ!
私の同僚がえらいはらちゃんをお気に召してて、二人で最終回までずっとはらちゃんはどうなるべきか、という話題で盛り上がっていたんですけど、いやー…見事でしたね!
実際、上に示した3パターン、全部やりましたからね!
本当に「両思い」の二人には、やっぱり1番も2番も試してみなければいけないものだったのかもしれないなーと思います。
…ネタバレがっつりしますよーしますよー!!
以下のセリフはだいたいの感じなので、正確ではないですよ~。
越前さんと別れることに決めたはらちゃんは「いいの?越前さんと別れても」と聞かれると、「大丈夫です。私と越前さんは両思いなので、離れていても両思いなんです」と答えます。「そうね、今はそれでいいかもしれない。でも、越前さんには誰か他に好きな人が出来るかもしれない。それでもいいの?」と更に聞かれます。はらちゃんは一瞬考えて「はい、平気です。越前さんが幸せなら。それが愛ってものですから」と答えます。
ここ素晴らしかったな~~!!!
最初にはらちゃんのことストーカーみたいだと思ったりしてごめんよ!!www真逆だったよ!!
ミキティのファンみたいだよ!!!愛って偉大だ!!!!
正直言えば拙い感じにも思える部分もあったにはあったんですけど、箱庭感っていうか、この突飛な話を成立させるための狭くて人のあんまりいない小さな港町っていう舞台装置も良かったし、明らかな「異常者」であるはらちゃんたちに対してやすやすと受け入れる周囲の人の感じも、ちょっと安易すぎるなーと思いつつも、そういう異常を正常に変換して受け入れる作業、みたいなことを放棄することで本当に伝えたい話をわかりやすくスムーズに進行してる、と思えば納得できないこともなかったです。
親子とは何ですか?→うーん深い問題だなあ、みたいなことで片付けるのも毎回だと、あんたたちちょっとwwwwとはなりましたけどねwwwww
ただ、越前さんのこのノートのルール問題っていうのはなんか難しくて。
途中で、はらちゃんが仲良くしていたかまぼこ工場の工場長がものすごいひょんな事で死ぬ(事故)という出来事が起こります。たぶん、はらちゃんに死という概念を学ばせるため?のエピソードですかね?
過去に突然お父さんを亡くした越前さんは、人の死を受け入れることにすごく弱いということで、はらちゃんに助けを求めます。そこではらちゃんが考えた方法が…越前さんが、工場長そっくりな「たまちゃん」というキャラクターを漫画に登場させる、という方法。
そもそも。どうなんですかね。たしか工場長は生前、自分には親族もいないし死んだら忘れられるだけだ、と言っていたのでそれへの親切な対応だったのかもしれませんけど。
そのノートに描いたキャラクターは、出てきちゃう可能性があるんですよ?
なんで描いちゃうんだ、越前さん!!描くならせめて洋服、髪型くらい変えてよ!!
実際出てきて、知人のパートのおばちゃんに叫ばれたりしてるんだけど、彼は工場長ではなく漫画の世界の外を知らないたまちゃんなので、おばちゃんを知らずに一緒に叫んで逃げたりするコミカルシーンとして描かれてるんだけど…これ、コミカルか〜???wwwwある種のホラーに思いません?
いや、このノートはそっくりなルックスにはなっても、実際記憶とかを引き継いだ人間として描くことは出来ません。というんだとしたら、最終話ひとつ前の、越前さんが自殺同様に自分を描いたノートを閉じ、再度開いて漫画の世界に行ってしまうというシーンはどうなるんだと。
中に入った越前さんは、ばっちり記憶を持ったままそっちの世界に行き、苦悩したりしているわけです。
というか、越前さんはジョーカーすぎるっていうか、まあ神様なんだから当然かもしれませんが、越前さんを送りに来たはらちゃんとお別れするために、最後にノートを開いてはらちゃんだけが漫画の中に帰る、というのもなんか理屈に合ってない。今までのドラマの中でのノートの法則に従うなら、
はらちゃんと越前さんがノートから出る→再度ノートを開いて二人とも中に入る→再度ノートを振って、越前さんだけが出てくる→ノートを封印する
本来なら、こうでないと一度漫画のキャラクターになった人は現実世界に存在できないと思うんだけどなあ。
あっさり越前さんが消えててずるいな〜。あれは矢東先生が消したのかな?とも思ったけど、ノートの絵消したら存在が消滅しちゃう気がするな…
ここで、何を言ってんだと。漫画を描いてる神様の意思でどうにでもなるんだよ、という話ならですよ?
ノートが古紙回収の車に持って行かれた時に、打ちひしがれた越前さんが、新しいノートに全員の絵を描いて、なんで出てこないのよーって言ってたのはどうなるんだろうって…
いかん、ものすごい重箱の隅になってきました。
ここらへんでやめときますが、私が言いたいのは、はらちゃんという世界のイニシアチブを取っているのは、越前さんなのか?ノートなのか?はらちゃんなのか?っていうことなんです。
その時々で、すごくルールが変化してるように見えるんですが、たぶんルールを明確にしないほうが面白いエピソードを盛り込めると思ったからなんでしょうかね〜?
グレムリンの、光に当ててはいけない、水に濡らしてはいけない、真夜中に食べ物を与えてはいけない、みたいなルールがあるから面白いやつもあるとは思うんですけど、はらちゃんの伝えたいメッセージの、「この現実世界も実は何かの創作物で、私たちはその登場キャラクターなのかもしれない」っていうやつにぼんやりとしたリアル感を持たせるためには、明確なルールはないほうがいいのかもわかんないですね。
どこから偶然世界がつながっちゃうか分からないようになるっていうか。
ま、そう思う事にします!wwww
物語と現実がつながる話、というのは、漫画を描くことがある私にとってはとても興味深い話でした。
医者と刑事と学校ものでないところで、すごくチャレンジングなドラマを作ってるところが素晴らしかったです!
あ、「この歌は私が作ったのではありません、歌詞は神様から、曲は悪魔さんから頂きました」のセリフは最高だったなあー!wwww
どうでもいいんですが、結構面白がって見てた「サキ」の、引っぱりに引っぱられて知った復讐劇の理由がショボいというか狂ってて、なんかズコーッ!!てなりました。
あれ、サキがどんどん人間を壊して行く過程は面白かったんだから、結末さえ違う理由に出来てたら最高だったのになあ。
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