時計屋紋十郎
1
新宿の伊勢丹の裏手に位置する『島中野時計店』に入ったのは、偶然であった。友人との待ち合わせをしており、私はただ通り道のこの店に、ちょうどその日の二三日ほど前に壊れてしまった時計の替わりを求めて、かなりいいかげんな気持ちで入ったのである。
以前から、知らなかったわけではない。ここに店があることを私は認識していたので寄ったのである。ただ、あまり店の内部が外から見える造作の店でないので、謎めいた好奇心を私は抱いていたのだ。私は当て推量でだいたい待ち合わせまで半時間ほどの余裕があるとふんで、この時計店の前に立っていた。
だいたい肩幅くらいの小さなショウウィンドウが、黒い大理石の壁に作られている。見上げると、時計の文字盤の形をした看板に、アールヌーボウの様にうねった文字の『島中野時計店』というロゴがのっている。ショウウインドウに入っている時計は、私の想像を裏切って、さして値の張らないものが三つ程並んでいた。全て腕時計であった。ドアは引っ込んだところにあり、大きな取っ手を引くと、何ともいえない古びた匂いが鼻についた。不快ではなかった。
私は意識するともなく店内を見回していた。そう広くない店内の四つの壁は、私の入ってきたドアのある壁も含めて、大層な量の腕時計が行儀よく鎮座していた。ドアの向かいの壁には奥に通ずる口があり、濃い茶色の床が続いている。この部屋の中央には、小さなショウケエスが目覚まし時計を沢山含んで立っていて、その真ん中で蓄音機が西洋のオペラらしい歌をするすると唄い上げていた。
しかしここには、私以外に誰もいなかった。
「すみません」
私が奥に向かって声をかけた。反応は無い。
「すみません、どなたか、」
高い天井の辺りから、ごとり、と音がして私は押し黙った。天井付近の壁にはかまぼこ型のすき間があり、そこに革靴がのぞいた。どうやらそこは階段の途中らしい。
ドンドンドン、と板の階段を降りてくる音がし、奥から一人の男が姿を見せた。ベストと揃いのズボンをはいた、姿勢のいい男だった。年は私と同じ三十代前半くらいだろうか。鼻の少し大きな、作りのいい顔をしている。
「いらっしゃいませ。」
あまりにこやかとは言い兼ねる表情で男は言う。
「どんなものを、お探しで?」
「腕…時計を」
男はどうぞ、といいたげな表情で置いてあった小さな椅子に腰掛けた。
「すごい品揃えですね」
私は世辞でなくそう言った。デパアトであってもここまでの品揃えはそうあるまい。
「ちゅうこですよ」
私は振り向いて、え、と小さく言った。
「中古品なのですよ、どれもこれもね。さして高いものはありません。しかし価値のついてしまったものもあります。そういう類はここには出しておりません。まあ、それでよければ見て行ってください。」
男は初めて笑った。悪くない顔だ。
「ずうっと、」
私は様々な形の時計から目をそらさずに店主らしいこの男に声をかけた。
「この店を見知っていて、興味がありました。そう、三箇月くらい前に、銀色の文字盤でベルトが茶の鰐革っていうのが表のショウウインドウに飾ってあったでしょう。あれはよかったな。あのとき、いつか入ってやろうと思ったんですよ」
「ああ。あれはいい品でしたよ。そう確か、売れてしまった。」
「そうですか。残念ですな」
私ははたと目を止めた。ベルト部分が鉄製の、そう大きくない木目の文字盤が入った時計が、妙に今の私には美しいもののように思えた。
「そちら、ですか?」
いつの間にか背後にまわっていた店主が、煙草をくわえたまま言った。
「うむ、これはなかなかいいですね。私の持っている少ない衣類の記憶を探ってみたところでも、これなどはとてもいいように思えます。」
私は店主に微笑みかけながらその時計を手にした。値も手ごろだった。
店主は私からその時計を受け取ると、保証書などを傍の棚から出して箱を用意すると、私にそれを渡した。私は気に入ったものがあったことがうれしかったので、金を財布から出すことすら、なにか楽しいことのように思えた。店主がいった。
「待ち人、来らずですな。今日の午後は暇になりそうですよ。もし暇になったら、ここへまた来られるといい。茶の一杯くらい出しますよ」
私は何と答えていいか分からずにはあ、とだけ言って店を出た。時計はすでに時間を合わせてあった。腕にしてみて感触を確かめ、待ち合わせた新宿駅に向かった。友人は来なかった。私は、島中野時計店へ向かった。
気味の悪い程の符合であった。島中野の店主は、確かに友人の来ない事を予知したように私には思えた。腕には先刻買った時計が規則正しく動いている。聞き違いでは、やはりない。
大理石の壁の中に入ると、今度は時計に囲まれて立つ店主がおり、どうやら茶を入れているところのようだ。
「ふふっ。来なかったようですな」
店主は煙草をくわえたまま、悪戯が上手くいったとでもいうように笑う。
「ええ、来ません。やっとの思いで電話をつないでみれば、奴は寝ておりました。今日の午後の予定は取り止めです、」
そこで私は意図して間をおいて、
「あなたの言ったように。」
「まあ、お座んなさい。ちょうどあなたのお茶が入ったところですから。」
二つの茶碗に茶がつがれていた。そこで私はふと気付く。なぜ、この男は私がここに入ってくるより前に茶を二つついでいたのだろう。
店主は用意してあった椅子を私に勧めた。蓄音機は相変わらずオペラを歌っている。マリア・カラスだろうか。
「申し訳ない。どうもあなたは、からかいたくなる顔をしていたから。」
主人は突然に始めた。
「からかう?一体どういう事なのです。あなたは、」
私が一緒懸命話そうとするほど、この店主は笑うのだった。ひとしきり笑って、申し訳ないを繰り返した。私は、もうこちらから質問するのを放棄した。
「申し訳ない。ふふっ。私は、見ての通りの時計屋です。この店は、祖父が始めたもので、道楽者だった祖父は時計好きが高じて、この店を開いた。中古の時計を買い入れる筋道をつけたのも祖父です。父は祖父のことがあまり好きでなかったようで、真面目一本に他に勤めて、今も東京で働いている。」
眉をしかめながら、店主は一口茶を飲んだ。
「まあ、あれです。大体じいさんの癖は孫に移るって、そういうことでしょうか。私も全く、道楽者なのです。例に漏れず、うちのぼうずは真面目で、まだいろはにほへと習ってる頃から、私はぼうずに怒られっぱなしなんですがね」
どうやらこの店主は家庭を持っているらしい。
「祖父は八十で死ぬまでここをやっていましたがね、その後を私が継いだわけです。幼い頃からこの店に入り浸たっていましてね、時計がどうにも好きなんですな。その頃からよく、じいさんは言っていたもんです。お客に時計を渡すとき、『女性というのは移り気ですから』とか『もったいないと仕舞い込んでおると、使う機を逃されますよ』なんて事をね」
「あなたもさっき、それをなすった」
店主はニヤニヤ笑いながら身を後ろに引いた。
「あなたはそれだからいけない。聞きたいことがあるとまた、そうやって、ムキになって」
「だって私は聞きたいのです、あれは何です?予知?あなたは占い師の類ですか?」
店主はもう一本、煙草を取った。
「物に入れ込むと、その物について、大変知識が豊富になる。触っただけで名柄や年代や値段が読み取れるようになってくる。」
「当然そうでしょうな」
「…もともとそういう体質だったのか、なんらかの霊力なのか、祖父はある日、はたと気付いた」
「何です?」
「中古の時計には、前の持ち主の時間が刻まれているということです」
「前の持ち主の…時間、ですか」
「目に見えるもので言えば、例えばベルトの穴。前の持ち主が使った穴には後が付くでしょう」
「ええ」
「それだって前の持ち主の時間、その頃持ち主は腕周りがそれだけで、ずっとその穴を使っていたという時間です。」
「なるほど。それはそうでしょう。文字盤に付いた小さな傷だって前の持ち主がその頃傷をつけたという証拠だ」
「そうです。しかし祖父に見えたのはそういう外見の事だけではなかった。その時計が、刻んだ時間の中で体験した全ての事を、見ることが出来たのです。すなわちそれは、前の持ち主の時間だ」
私は急に、この悪戯好きな店主にまた一杯くわされかけている事に気付いて身を引いた。
「私をからかって、そんなにお楽しいですか」
店主は意外そうな顔で私を見つめて、そして視線をそらして煙をふうっと吐いた。
「まあ、大概そのような反応をなさいますよ、皆さん。それに私はあなたをからかい過ぎたようだ。狼少年、ですなあ一種の」
「私はご店主、あなたがさっきされた手品の種を明かしていただきたいだけです。どうかそんな、作り話は」
「残念ながら、これは作り話じゃあないのですよ」
店主は、慌てるでもなく、怒るでもなく、淡々とそう述べた。
「続きくらいは聞いていただけますかね。…さて私は、祖父のそのテのものばかりを受け継いでしまった。あれは二十歳になったばかりの頃、急に私にも見えてしまったんです」
「前の持ち主の時間、ですか」
「ふふ。まるで詐欺師と分かっている人間の口上を、騙せるものなら騙してみろと言わんばかりに聞くヒトの様ですよ」
「おおむねそんな心境でして」
「さあ、私に見えたその時間というのは、祖父もそうだったのかは聞きませんでしたが、前の持ち主が体験したことの中で、際立って目立つ事項が浮かび上がって見えるんですな。それらはみんな、この店に並んで置かれているわけですがね、自分であるとき気付いたのですよ」
騙せるものなら、と思っていたはずが、私は今また、騙されかけているような気分で店主の話に聞き入っている。
「その日の気分で、ああ、今日はこの時計がいいなあ、とか今日はこれが一番よく見える、とか薄らぼんやりと思うんですがね、その日に良いと思った時計の記憶と、私がその日体験することが、非常に似通っていることに。」
「…例えば?」
「おや、騙されかけておられる。ふふっ、そうですなあ。例えば、今日はこれ、と思って手にした時計から、ああ、前の持ち主はよく落し物をした人だなと知れるわけです。そんな日は財布を落としたり」
「偶然でしょう?」
「あるときは、食べ物でとても難儀をした記憶を持った時計を取って、その日は食事時にやたらお客が来たり、しかも夜飯の時に猫に秋刀魚を持っていかれるなんていう漫画まがいのことが起こったり…」
「それはまさに偶然だ」
「まあ、そのへんでしたら私もねえ。しかし…」
その時、急にどたんばたんと大きな音がして、店内に新たな客が入って来たのが分かった。私は入り口に背を向けて座っていたので、目を向けるのが店主よりも遅れた。
「ああ、高松さん」
「よう。…なんだ客か」
私はようやくその客の姿を返り見た。大きな男である。黒いコートをぞろりと着て、足音も派手に歩いている。浅黒い肌をした顔は、姿の割に愛敬がある。目が大きいせいかもしれない。なんだ客か、というからには、彼は客ではないようだ。
「失礼な言い方をしなさんな。手前の大切なお客様なのだから。」
店主は苦笑いして立ち上がり、茶碗を奥からもう一つ出してきた。
「どなたさまであらせられまするか?」
大男は店主が居ないすきにその椅子を奪いとり、興味深げに私を覗き込みながら言う。オペラなど、すでに聞こえなくなってしまった。
「ほうら、だからそれが失礼なのだよ。こちらは…」
店主はそこまで言ってふっと私をまじまじと見つめた。
「そういえば、お名前、お聞きしていませんでしたな」
「野村、と申します」
野村さんだ、と店主は繰り返して、奥に取って返すと椅子をもう一脚持って戻ってきた。
「島中野、あんたも相当いいかげんだな」
大男は大きく笑う。案外、若いのかもしれない。
「あなたほどじゃあない」
「で?どんなお客なんだ、野村さんは。」
「普通の、お客様だ。どんな客ってことがあるかね」
「普通の時計屋、だったら俺だって尋ねやしねえよ」
大変意味しんな発言をして、大男はぐっと私に顔を近づけた。
「俺は高松。高松源次郎だ。刑事をやっている」
たぶん私はひどく失礼な顔をしたらしかった。私が一言を発する前に、店主と高松は笑い出した。
「あんた今、ちょっとすごい顔したぞ」
「しかしあなたの反応は至極真っ当ですよ、野村さん」
店主は煙草の灰を落としながらまた、ふふふ、と笑った。
「申し訳ない」
「いや頭を下げるには及ばない。…ちょっと俺、島中野に急用なんだが、いいだろうか?」
ええどうぞ、と私が言うと、高松は今度は店主に伺をたてるように顔を見た。
「あの事件は解決したと言っていたと思うが?」
「ああ。そう難しい用件じゃない。最後の後始末といったところなんだが…」
彼はするりと一つの時計を出して、机に置いた。
「奴の供述が、変にばらけてる。何を理由にそんなことをしているかが分からねえ。で、うちの課のやつらの腕時計をひっかき集めて奴に一つ選ばせて来た。これで奴の、心境が分からんだろうか?」
私はどきりとして高松を見つめた。私は刑事と名乗るさくらに騙されているのだろうか?それとも…
「個数が限られているから、正確な答えが出るとは思えないが…それでもいいだろうか?」
「ああ、構わん。頼む。」
店主は自然な調子でその時計を取った。私は、ウンと唸ったり、呪文でも唱えるかと思ったが、眉ひとつ動かさずに店主は再び時計を置いた。私は始終、店主の指先を見ていた。
「はっきりしたことは言えないが…そうだな、ただ、怖いんだろう」
「怖い、だあ?」
高松は声を張り上げた。
「そう。誰かを庇っているとか、狙いがあるとかじゃあない。証拠も、状況も全て揃った今、彼は逃れられないことを知っているが、ここに来て急に自分のしたことと、今置かれている状況と、これからの自分の処遇を考えると、ただ怖くなったようだな。そこで共犯がいたり、まだ事件は終っていないような事を言って、じたばたしているだけだろう。かなり上手な嘘を述べているようだがね、その辺りを突けば状況が変わると思うが」
私は高松を見た。高松はじり、と髭の剃り残しをなぞった。
「そうか。それは有難いな。せいぜいご意見、活用させて頂こう。だがな…」
高松は暗い目で自分が持ってきた時計を睨み、
「一体こいつは、誰の時計だったかな?」
そうか、と私もその時計を見つめた。この時計の記憶は、今のこの時計の持ち主の記憶なのだ。それも、一番深い印象の。
「悪いが、はっきり言わせてもらうと、この持ち主は警察官には向かないように思うがね」
全体的に銀の時計である。文字盤は鱗のように光る茶色が敷き詰めてある。簡素だが、ベルトはなめらかに曲線を描くように作られており、芸の細かさを感じた。
高松は電話を借りるぞと言って、またどたんばたんと電話に近づき、大声で名乗った。
「高松だ!吉野はいるか!……ああ、吉野か?お前が時計を集めてきたんだったな?…ああ、分かってるよ、俺が命令したんだ。」
この男なら命令する、というのが正に合っている。多分命令したのだろう。
「お前、時計の特徴を言えば、誰のものか分かるか?…よし、じゃあ…銀で、文字盤は茶、高そうな時計だ。……そう、文字盤も光る感じの………え?」
高松は、あっけにとられて口をあけたまま、電話口から『もしもし!』と大声で言っているのが聞こえるぐらいになるまで黙っていたが、急に高笑いをし始めた。
「よしよし、そうか、なるほどな!いやいい、…いい、お前はいいんだよ!じゃあな!」
叩き付けるように電話を切って、高松は最初に会った時のようながちゃがちゃと陽気な様子に戻ってこちらにやってきた。
「うちの課の同僚に、そんな世を恐れおののいているような奴がいたら堪らんと思っていたが、そうじゃあなかった!」
店主は茶碗に口をつけたまま、果てしなく大きな高松を見上げた。
「同僚以外からも時計を借りていたのかね?」
「ああ、あいつは同僚なんかじゃねえよ」
高松はまた、ひとしきり笑って、
「うちの課長さ」
私と店主は思わず顔を見合わせた。
私はもう、騙されることにした。そう決めてしまえば楽なものである。これが嘘でも面白いものだと、そう考え始めていた。
「島中野、あんた、この野村氏に時計の話をしたんだな?」
高松は、大変いぶかしげに店主を見やった。
「ああ、した。」
「一体全体、どんな心境の変化だ?俺の時は、理由は聞くな、ただこれは真実だ、ばかり繰り返していた癖に」
私は心底意外だった。店主は気の向いた時にいつでもそんな話を誰にでもしているのかと思っていたからだ。それほど、店主は素っ気なく私にあの話をしたのだ。
「時計の…話をなすったでしょう」
店主が急に私に言った。
「え?どの時計の話です?」
「三箇月前にショウウインドウに入れていた、茶の鰐革のベルトの時計です。あなたはあれが、欲しかったとおっしゃった」
「はい。あれは良かった。」
店主は無言で、するりとシャツの左袖をまくった。
「ああ!それは…」
その腕に巻かれていたのは、私が三箇月前に見た、あの鰐革のベルトの時計であった。
「妻は、私があまりに時計に入れ上げているので、どちらかといえば時計が嫌いでしてね…。しかしこれをショウウインドウに飾った時、妻が初めて、店の時計を褒めました。それがこれなんですが…。そして、きちんと金を払って、私にこれをくれたんです。時計の記憶は…『良き理解者』といったところでしたかね。」
高松は、はあなるほど、それで、と言った。店主はそれで、私にあの話をしたのか。『良き理解者』…自分ではどうだか分からない。
店主がもう口を開けないようなのを察して、高松が続けた。
「野村氏、島中野の奥方は、それからすぐに亡くなった。いい人ほど、早く亡くなる。」
私は店主を見た。煙草は、半ば吸われている。
また近いうちに訪ねることを約束して、私は島中野時計店を後にした。
2
後になって考えれば考えるほど、何とも穴だらけの話である。島中野時計店の店主、島中野紋十郎と、警視庁の刑事、高松源次郎が組んで、私を騙そうとしているとすれば、簡単に出来る詐欺である。紋十郎の妻が死んだ事にしろ、話していた犯罪者の事にしろ、演技できないものではないし、刑事というのさえ手帳ひとつ見せてもらったわけではないのだ。しかし待ち合わせしていた友人が寝坊をしたのは事実である。偶然だろうか。もし友人がまともにやってきていたら、別にそれはそれで、私をペテンにかけるのをやめるというだけの話だったろうか。
私は数日考えあぐね、とうとう思い立って、警視庁へ電話を掛けた。
「高松…源次郎刑事はおられますか」
私は実際、そういう者はおりません、と答えられるのを確信していた。しかし予想に反して、はいはいおられますぅ、と妙な抑揚をつけた返事をしながら、受話器の向こうの刑事は、ししょうーししょうーと叫んだ。先輩刑事を呼ぶのに師匠、というのは妙である。しかし…あの大男なら呼ばせかねない。
「高松だ!」
高松だった。私は返答に窮した。このまま切ってしまおうかとすら思った。
「おい!誰だ!返事をしろ!」
私は正に蚊のような声でもしもし、と告げた。高松はさらに大声で誰だ誰だと叫んでいる。
「野村、です」
「のーむーらー?」
「せ、先日、島中野時計店でご一緒した、野村です」
高松は急に黙り、
「ああ、あの時の野村氏!」
今までの五倍くらい大きな声で高松は叫んだ。
本当に刑事であるのを疑っていたほどであるから、高松とつながってしまった後の会話など、用意しているはずもなかった。しかし電話をしたのは私のほうである。用を捻出しなければならない。
「どうした?何か用か!」
「あ、…いや、実は、今度また、島中野さんに寄らせていただこうと思っているのですが、ご一緒にいかがかなと思いまして…」
「いつだ!」
こちらが『お誘いしている』以上、下手に出るしかないが、大変な態度である。
「木曜にでも、」
「あんたカタギじゃないのか?」
私は予想もしない方向から来た返答に、喉をひゅうと鳴らして黙った。
「てっきり堅い勤め人だと思っていたが、木曜に出歩けるとはなあ」
「…挿絵画家をしていまして」
私は三つの出版社を出入りしている、雑誌の挿絵画家をしていた。割と売れているほうかもしれない。時々、知り合いの作家の本の装丁や挿絵を描いたりもする。
「ほう、見かけに寄らずヤクザな仕事をしているんだな。芸名、って言うのか?名前、なんて名で仕事をしてるんだ?」
「野村…」
「何だ、本名か」
「いえ、下だけ、時之丞というんですが」
「野村、時之丞ねえ。おい、吉野!」
はぁい、とさっき電話に出た男が答えている。なるほど、あれが吉野か。
「お前、小説よく読むんだったな?…もしもし?」
高松が尋ねたので、私は私が挿絵を描いている作家の中でもなるだけ有名な名前を教えた。
「吉野、近藤勤と牧尾みさをって作家の本、読んだことあるか?…それの挿絵の、野村時之丞って知ってるか?」
大概は知らない、私は思った。皆、活字を読むために雑誌や本を買うのであって、装丁や挿絵を買うのではない。しかし、驚いたことに、
「知ってますぅ」
という返事が聞こえた。吉野はここに『月刊現代小説』がありますぅ、と言って、高松の側に持ってきたようだった。しばらく、耳が痛いほどの、頁をめくったり紙をがさがさとさせる雑音が続き、
「おう、あったあった」
と高松が叫んだ。
「へえ、やっぱり上手いもんだ。女のはだかも描いたりするんだなあ」
きっと近藤勤の頁を見ているのだろう。いつもなよりとした女が二枚目の主人公にすがる場面が出て来るので、抽象化した女性を描くことが多い。はだかを描いた覚えはないが。
「でもこれで、多少はあんたの身元が知れたわけだ。こっちはあんたが職業すら名乗らないで消えたもんだから、ありゃあ狐か狸か、なんて話していたんだよ」
考えてみれば、どちらかといえば私の方が謎の人物だった様である。そういえば、名字しか名乗らなかったかもしれない。
じゃあ木曜に、ということで電話を切った。このどたばたした電話も、そう悪いものではなかった。
大理石の黒光りするショウウインドウの前を通って、古びた匂いに蓋をしている扉を開ける。
「画家さんだったそうですな」
まだ挨拶をする前から、店主は気楽に言った。
「先日は、失礼しました。まともに名前も名乗らずに」
私は帽子を取りながら頭を下げた。店主は前と同じく煙草をふかして、前と同じく悪戯しようと狙っているように笑っていた。
「特に問題ありませんよ。ああ、そうだ高松さんに聞いて、すぐに本屋へ行ったんですよ」
店主はそう言って、床に置いてあった四、五冊の雑誌を取り上げた。
「この、『ちどり』という雑誌の、滝下慎吾という作家の挿絵は、いいですなあ。気高い尾長鶏の姿がよくとらえられていて」
「ああ、それは私も自信作ですよ」
「でも『月刊現代小説』の近藤勤のは、あまりいただけませんな。」
「それは私も、非、自信作なのです」
私達は顔を見合わせて噴き出した。
「挿絵にこだわる作家と、こだわらない作家が居るのですよ。近藤先生はこだわる作家の代表のような方でして。しかも悪いほうにこだわってらっしゃるので」
「趣味が悪い?」
私は顔をしかめてうなづいて見せた。店主はさも愉快そうに、煙草をくわえたまま、ふふふ、と笑った。
「どうです、野村さん、私の言った事を信じるような気分になりましたか?」
正直、それを聞かれるのが一番嫌だと思っていた。しばらく考えて、
「はっきり申し上げれば、半分以上信じておりません。でも高松さんは本当に警視庁の刑事さんであるし、あなたが私をどうしてそこまでして騙す必要があるかも分からない。もう、どちらでもいいというのが実感です」
店主は特に、困った顔も辛そうな顔もしなかった。
「まあ、そうでしょう。では、遊びのつもりで、今日の時計を一つ、選ばれませんか?」
私は急にぎょっとして、四方を囲んだ大量の時計を見渡した。これでもし、今日死ぬ、などと出てしまったらどうすればいいのか。
「半ば信じておられない割には、かなり深刻な顔をなさってますが」
店主はからかうように言う。私は意地を張って立ち上がり、丹念に時計を見て回った。
今日は、この時計がいいと思った。ベルトが緑の、ビロオドで出来ているようだ。文字盤の周囲に金の金具がはめてあり、文字盤自体はシンプルに、白地に黒文字だった。ロオマ数字で書かれている。
「これはいい。豪華な雰囲気ですな」
店主は、すっと近づいてきて、その時計を持ち上げた。
「ははあ。なるほど。」
何がなるほどなのか、私は不安で仕方がない。覗き込むように店主を見た。店主はまた悪戯に笑いながら私の手をとり、手相でも見るような振りをしながら、
「女難の相が出ておりますな」
「女難!」
「まあ、言うなれば、です。女性は魔物と言うでしょう。姿形が美しくとも、中にどんな毒を秘めているかわかりませんよというお話で」
「一体、前の持ち主はどういった…」
「知らぬが仏と言いますよ」
その時、前と同様にどたんばたんと大男が入って来た。今度は振り向く前に分かった。高松である。
「よう」
「相変わらず騒々しい登場だなあなたも」
店主は苦笑いで言った。
「そう遅れた気はないが…、どうも、こんにちは。」
高松が妙に普通の挨拶をしたので、私は慌てたふうに挨拶を返した。
「野村氏は、業界ではなかなか名の通った画家さんらしいじゃあないか」
「調べたのですか」
私は多少ひきつりながら尋ねた。相手は警視庁の刑事である。
「ほんのちょっぴり、な。俺が調べるとなったら、初恋の女の事から祖父さんの好きな食い物まで調べ上げるぜ」
「それは辞退させてもらいます」
多分本当だろう。姿素振りに似ず、この男は有能そうである。
すでに椅子は三脚用意されていた。私達は思い思いに座り、店主は茶を入れるために奥へと入っていった。その時である。
「ごめんくださいませ」
明るすぎる昼間の光がさっと店の奥まで入って来た。私は入り口を左にして座っており、すぐに入り口に目をやった。眩しいので、見えたのは人の形の影だけだった。
「こちら…島中野さんのお宅でしょうか?」
高松がぐいと体をひねって、背にしていた入り口を振り返った。
「そうだが?」
「よかった。私、新宿は初めてでしたので、少々迷ってしまいまして…」
その時店主がお盆を持って戻って来て、いらっしゃいませと言った。
「どうやら店主、あなたに用があるようですよ」
「店ではなく?」
店主が促すと、その女性は神経質なほど静かに、重いその扉を閉めた。それでやっと、顔をはっきり見ることが出来た。
大変美しい女性である。年は三十くらいの、女盛りといった華やかな美しさだ。しかし落ち着いてはいる。あさぎ色の高そうな着物を着ていた。一見して社長夫人のようである。
「そちらが…島中野さんでいらっしゃいますか?」
女性は店主を示した。
「ええ、そうです。どちら様で?」
「あの、私、篠塚真智子と申します。慶子さんの、女学校時代の同級の、お友達なんでございますが…」
店主がふっと黙った。高松が、篠塚真智子に見えないように口に手をやって、『しまなかののかみさん』と声を出さずに言った。
「…はあ、それはどうも。」
「慶子さん、いらっしゃいますかしら?」
篠塚真智子は、はっきり朗らかに言った。
私と高松は顔を見合わせた。この女性は、島中野夫人の不幸を知らないのだ。
「…そうですか。申し訳ございません。慶子は…二箇月半ほど前に、亡くなりまして」
店主は左手首をそっと抑えた。そこには、夫人からの最後の贈り物が巻かれている。
はっきりと、篠塚真智子は動揺した。まあ、そんなと言いながら二、三歩あとずさった。そして、あぶない、と思う間もなくその場に倒れた。
この店の二階に上がるのは初めてだった。
階段を上ると踊り場があり、そこの低い位置にかまぼこの窓が開いている。私は篠塚真智子の足元を持ちながら、ちらりと外を覗いた。階下に、動いていない蓄音機が見える。そしてそこから左に直角に曲がり、また階段が続く。短い階段を上り終えると、右手に襖の張られた部屋と左手に洋扉が二つあった。店主は篠塚真智子の頭を、胴を支えている高松に預けて、襖のほうを開いた。畳の床の間である。
「布団を敷いたほうがいいだろうか?」
腰に手を当てて、落ち着いた調子で店主は言った。
「座布団を折って頭に当ててやりゃあ上出来だろう。ただ気を失ってるだけだ。」
高松も冷静である。慌てているのは私だけだった。
「で、でもあなたは医者ではないでしょう。気を失っているだけかどうかは、」
「いいや、これは気を失ってるだけだ。」
まさにぴしゃり、といった様子で高松は断言した。
店主がこしらえた座布団の寝床に篠塚真智子を横たえる。和服であるので、帯を解くわけにもいかず、体を横向きに寝かせた。
「本当は着ているものを緩めないといかんがなあ、男三人でそんなことをするのは気が引ける。犯罪の臭いがする」
高松がぐっと腕を組みながら言った。
私達はまた店先に戻り、篠塚真智子の回復を待った。ちらちらと二階を見上げるのは私だけで、店主と高松は二階の事など忘れてしまったように振る舞っていた。
「…何の御用なんでしょう」
思いきって切り出してみた。
「何がだ?…ああ、あの女の事か」
「慶子の友人、と言われても、夫が把握しているものでありませんしなあ。野村さん、あなただってそうでしょう?」
「いや、私は独身ですのでその辺りのことは、」
「ほう、野村氏は独身か!そうは見えない。もうガキが四、五人いるかとみまごう」
「失礼な」
私は笑いながら高松を睨んだ。
ぎしっ、と音がして、階段辺りに人の気配がある。乱れた髪を整えながら篠塚真智子が姿を現わした。
「大変…申し訳ございませんでした。」
「いかがです?ご気分は」
「はい、お気づかいいただいて」
篠塚真智子は真直ぐに店主を見やっている。
「慶子さんのこと…、知らぬこととはいえ、大変失礼いたしました。お悔やみを申し上げます」
「はあ」
店主は多少おっくうそうに頭を下げた。
「私、すぐに失礼いたします。ただ、これをお渡ししなければ」
篠塚真智子が、手提げから厚みのある封筒を取り出した。優雅な素振りで店主に近づき、両手でもってそれを店主の掌に乗せた。
「これは?」
「慶子さんからお借りしていたお金でございます。今日が期限でございましたのでお持ちしたのですが…」
「慶子が、そちらに金を?」
「ええ。お借りしていたというよりも、売っていただいたものの代金でございますわ。売っていただいた時は、ちょうど持ち合わせがございませんで、主人が海外の取り引きを終えて戻ったら、お金をお持ちすると約束していたんでございますけれど…」
「おい、いったい慶子さんはあんたに何を売ったんだ?」
「時計、でございますよもちろん」
高松が、妙にゆっくりと店主の顔を仰ぎ見た。
「どんな時計です?」
「キンバリイ社製の、文字盤にダイヤを埋め込んだ素晴しい時計でございます。」
「キンバリイ!」
私は思わず、声を上げた。特に時計に詳しいわけではない私ですら、その名は知っている。スイッツランドの大変高価な時計会社である。しかも文字盤にダイヤモンドがあしらわれているとすれば、それは大層高価であるに違いない。店主は、ちょっと失礼、と言って奥の通路へ入ってゆき、しばらくしてから眉間に皺をよせて戻ってきた。
「慶子がそちらにその時計を売ったのは、いつ頃のことで?」
「三箇月、ほど前のことでございましたかしら。私は夫に贈る時計を探しておりましてね、あるときばったり慶子さんにお会いしまして。慶子さんは、うちは時計屋だから、お好きな時計を用意しますよと言ってくだすったんです。それでキンバリイを。」
「そうですか。確かにうちに置いていた、キンバリイ社製の時計が見当たりませんので、篠塚様にお売りしたようですね」
「おいおい、島中野、そんな高価なものが無くなっていたのに三箇月も気付かなかったのか?」
高松は怒ったように声を上げた。
「箱に入れて仕舞っているんです。箱を確認はしていたけれど、開けてまでは見ていなかった。数もたくさんあるのでね。…近頃、ばたばたしていたし」
夫人の死のことだろう。
「ですから、こちらはその代金なんでございます。どうぞお受け取りになって下さいませ。」
篠塚真智子はそう言って再びきちんと、店主の手に封筒を持たせた。
「…申し訳ありませんが」
「はい?」
「こちらを受け取るわけにはいかないのです。」
「どういう…ことですの」
「大変失礼ですが、そちらにお売りしたキンバリイ、お返しいただけませんでしょうか?」
篠塚真智子の顔からさっと血の気が引いていった。
「そんな…そんなこと、できませんわ!私もう、主人に贈ってしまったんですもの、そんな、…」
「無理は承知しています。しかしあのキンバリイは、売り物ではないのです。」
そして店主は、暗い目で言った。
「あれは…祖父の形見でして」
篠塚真智子は息を飲んだ。そして、静かに表情を緩めた。
「そうですか…そうでしたの。慶子さんもきっと、私に親切にしてやろうという一身で売ってくだすったのね…友達思いの方でしたから。…分かりました。それでは主人に訳を話して明日にでも、お持ちしますわ。…でも、島中野様、私の方も、あの素晴しいキンバリイを手放すのは本当に心名残惜しいんでございますのよ。お分かり頂けます?」
「ええ」
「ですから、誠意を見せて頂きたいんですの。」
篠塚真智子はそう言って、ぐるりと店内を見回し、そして店主に美しく微笑んだ。
「…分かりました。それではあれと、同等な時計をご用意しましょう。」
しばらくして、店主は透明なケエスに時計を六つ入れて戻って来た。どれも素晴しく輝いている。それらは最初に私がこの店へ来た時店主が言っていた、表に出していない『価値のついた物』の一部であるらしかった。
「…まあ…」
篠塚真智子は、大きくため息をついた。
「素晴しいですわ…」
そう言い、ケエスの中を食い入るようにしばらく見つめ、そして震えるように一つの時計を指差した。
「これ…こちらにして頂けますかしら?」
私は少し、意外に思った。篠塚真智子が差した時計は、全体的に金が使われた眩い時計だった。私はそれを、ひどく成金趣味だなと感じたばかりだった。金の光り方も下品である。私は篠塚真智子の和服の趣味から、もっと渋めの時計を選ぶと思っていた。
店主の方に視線を移した。その表情は、微妙だがこわばっている。
「これ、ですか。」
「そう、そうよ…こ、これはとても…すばらしいものだわ」
店主は、しばらく黙って篠塚真智子を見つめ、不意に微笑んだ。
「これの婦人用もあるのです。いかがです、してみませんか?もしお気に召したら、こちらの誠意として婦人用もおつけしますよ」
「まあ!え、ええ、是非!」
店主は婦人用を取って戻った。紳士用と同じく、嫌な光り方をする。
篠塚真智子は自分のしていた時計をはぎ取り店主に渡し、店主が差し出すその時計を腕にし、うっとりと見つめた、そして、
「肌襦袢の下ですか。私たちが脱がせるのは『犯罪の臭いがする』そうですから、高松刑事、婦人警察官を一人よこすか、警察へ連れてゆくかして頂けますかね」
篠塚真智子は動かなくなった。
「島中野、一体どういうことだ?」
「キンバリイだよ。このかたの肌襦袢の下にあるようだ」
「は?でもあの、ご亭主がしてるんじゃ…」
私は、店主が何を言い出したのかさっぱり分からなかった。状況が急激にひっくりかえったのは知れたが、それを把握しきれない。高松は私よりは、現状を認識するのが早かったようだ。
「嘘、か?」
「そうだな、警察へ行く前に、私の目の前ではっきりしたほうが清々するから、婦人警察官を呼んでもらえるかな?はい、電話」
店主は高松に受話器を渡して、するりと、立ちすくむ女性の腕を掴んだ。篠塚真智子は一瞬、逃れようと体に力を入れたが、どうにも店主は力を込めて掴んでいるらしく、動けなかった。
高松が、いつものように大声で電話し、警察の車を誘導するために店を出て行った。店主は私に紐を渡して、縛っておいて下さい、といって奥に下がってしまった。
私は、篠塚真智子と二人きりになった。
私にはまだよく、理解が出来ていない。しかし高松の「嘘」という言葉だけは、分かったような気がして、それだけを頼りに私は篠塚真智子の腕を縛った。
「…一体、何故こんなことをなさるの?」
声のしたほうを見た。篠塚真智子が腕を縛られながら、私を見ている。
「急に、なにをなさるんです?どうして?私には分かりませんわ。時計を、慶子さんから買ってしまったのが、そんなに罪ですの?」
瞳が濡れている。
「慶子さんを、訪ねて来ただけなのに…」
そうだ。この女性は、島中野の店主の、亡くなった奥さんが勝手に売ってしまった時計を、知らずに買ってしまった、いわば被害者だ。店主にしろ高松にしろ、あの奇人だ。こんなか弱い女性を
「野村さま、どうぞ」
縛って
「ほどいてくださいまし」
『女難の相が出ておりますな』
我に返った。そして何となく、理解した。
「それは出来ませんな」
篠塚真智子、いや篠塚真智子だったものが叫んだ。
「なんだい、てめえ!いいからぐずぐずしないで早く解きやがれ!」
私は体当りを食らって思いきり後ろにひっくり返った。ちょうど店主が駆けてきた所で、篠塚真智子をぐいと引き寄せた。
「あんたはただ、うちで泥棒を働こうとしたのじゃあない。私の事を、慶子を、踏みにじったんだ。ただで帰すわけにはいかないんだ」
「ふん!あんなあばずれ、死んで清々するってもんだ!」
ぱん、と弾けるような音がした。店主が表情も変えずに裏手で篠塚真智子の顔をはたいたのだった。そのときやっと、高松が戻ってきた。そうして三人の警官と、婦人警察官一人が篠塚真智子を連れて、二階に上がって行った。
私は、高松が近づいて来て私を引き立たせるまで、しりもちをついたままだった。
後日、私は島中野時計店を訪ねた。
店の扉を開けると、あの匂いが漂ってくる。そして、大きく荒い笑い声を聞いた。
「おや、高松さん」
「おお、野村氏か!奇遇じゃないか。」
「いらっしゃいませ、野村さん」
高松は大きな体をこれ以上できないほどに椅子にあずけて座っている。店主は時計のほこりをはたいていた。
「この間は大変だったなあ。しりもち」
嫌な事を言う。高松は大きな目をくるくるとさせて笑った。
「女難でしたな」
店主はまた、煙草をくわえてふふふ、と笑っている。しりもちはたいした怪我ではないが、精神的に酷く女難だったように覚えている。
「分からないのは、」
私は身を乗り出した。すると店主はまたにやにやと笑い、
「またそうやって聞きたい時ばかり。」
「島中野、一から教えてやればいいじゃないか」
そして店主は話し始めた。
「最初に妙だと思ったのは、これは高松さんも同じだったようだが、慶子に時計を売ってもらったと言った時です。何故かというなら、最初に野村さんがいらした時も言いましたがね、妻という人は、時計が好きじゃあなかった。かえって嫌っていもした。だから妻はね、どこにどんな時計があるかなんて、知ってもいないし、商売しようだなんて気には絶対ならない人なんですよ。そこの高松さんもそれを知っている。」
「ああ。たまにこのおやじが店をあけるというんで、奥さんが店番しなけりゃならん時なんか、あの人はまた、一日中不機嫌でな。」
「そう考えて、はてそういえばさっきこの女性ぶっ倒れたのもなんかどうにも演技のようだと思いつきましてね。」
「脈もやたらにしっかりしていやがった。だから言ったろう、医者なんかいらん、と」
それで妙に高松はあの時、落ち着いていたのだ。
「しかし祖父さんの形見は無くなっている。これは一体どういうことだろうと」
「でも、あの女性は、お金を持ってきた訳でしょう。島中野さんがすんなりと受け取っていたら、どうするつもりだったんです?」
「まずその壱」
と急に高松が言った。
「あの札束は半分は偽札。精巧なもんじゃねえから見りゃすぐわかる。でも半分は本物だ。ぱらぱら混ざってるのを見ただけじゃ分からねえ。その弐、あの女が慶子さんと同窓だったのは本当だ。亡くなる少し前に慶子さんに会ってるらしい。そこで高価な時計の話を根掘り葉掘り聞いたってわけだ。でも奥さんは時計のことを全然知らねえ。どこにあるかはわからねえが、辛うじて知ってたのが、」
「キンバリイ?」
「そう。祖父さんの形見だ。だからもし、もう買いました、これがお代ですって差し出したって、こいつが受け取るわけがねえと踏んだんだよ」
「どうもね、野村さん。妻は知らず知らずにあの女性を傷つけたようなんですよ。大変久しぶりに会った時、妻は彼女を相当叱ったり、生活を改めるように言ったりしたんですな。妻は妻なりに彼女のことを思って言ったんでしょうが、彼女は自分が見下げられているように感じた。ましてや、妻には言わなかったが泥棒稼業だ。それで恨んだ。そのすぐ後に妻の死亡記事を新聞で見た。そうだ、ここで泥棒を働けば、死人に鞭打つ行為だし、本人もいないから騙しやすかろう、と。」
人間は、自分が後ろめたい状態にあればあるほど、正論を言う人間が恨めしい。分かっていればいるほど、頭に来る。そしてそこまで酷いことを思いつけるのだ。
「さて、形見と聞いて、さも仕様がなく折れるというふうにあの女性は返すことを承諾した。それで、誠意を見せろと来た。計画では、キンバリイは返さない。金も、後で耳をそろえてお返ししますとでも言って持って帰る。誠意に新しく買うことにした時計も持ち逃げ、とそういう魂胆だったんでしょうね。だから私は細工をした。」
「細工?」
店主は新しい煙草をくわえて、火を付けた。
「まあ、ここだけの話、この悪徳警官の前だから言えますがね、うちの奥にしまっている高級時計というのは、盗品というのもあるんですよ。」
「盗品!」
「逮捕だ!」
そう言って、この悪徳警官は笑っている。
「私が六つ、時計を持って来たでしょう。その中に一つ、盗品を混ぜておいたんですよ」
なるほど、またあの技を使ったらしい。
「野村さん、あの時計をどう思いました?あの女性がこれ、と差した六つのうちの一つですよ」
「…申し訳ないが、大変悪趣味だと思いましたよ」
「そうでしょう。前にあなたが作家先生というのは挿絵にこだわる人とこだわらない人がいると言ったでしょう。泥棒にも、両方おるのですよ。そして近藤勤先生のように、こだわって、それが大変悪趣味だというのが」
私は小さく笑った。
「どうなんでしょうな。時計が呼ぶんでしょうか。同じ様なことをする人間は、同じような嗜好を持っているんですかな。あの女性は迷わずあの時計を欲した。ああ、これはやっぱり、とね。」
「あのう、」
と私は口を挟んだ。
「キンバリイはどうやって、手に入れたんです?奥さんから買ったんでないなら…」
「あの女は、一人だったんだぞ」
そうか、と私は膝を打った。あの女性は、寝込んだ振りをして店の奥に忍び込み、狙いのキンバリイを盗み出したのか。
「どこまでも計画的ってことだ。わたくしが買いましたワって言われてから島中野が見に行ったところであるわけがねえ。」
「泥棒だって、分かったところでさて、キンバリイも盗まれているに違いないわけです。野村さんが私なら、どうします?」
さっぱり浮かばない。果たして店主はあの時、どうしたのだったか。
「…ああ、それで婦人用の時計を出したのか!」
高松の言葉に、店主がにやりと笑った。
「そうでしたね、婦人用の時計を渡されましたね。…で?」
「あんた、とてつもなく鈍いな。いいのか?画家は鈍くても?」
「悪徳警官は失敬ですな」
私はばつが悪くてもぞもぞと言った。
「ふふふ、野村さん、私の狙いは婦人用の時計ではありません。その、」
と、店主は、あの時篠塚真智子と向き合ってした行動を再現しながら、
「彼女の時計の、『過去の記憶』が見たかったんですよ」
あっ、と声を出すのが精一杯だった。そうだった、あの時店主は、彼女がしていた時計を受け取り、婦人用の時計を渡して…
「忍び込んで、形見を出している彼女が見えましたよ。生々しい記憶ははっきり見える。そして、着物の裾を、およそ金持ちの婦人とは思えない仕草でばーっとめくりあげ、帯の下、肌襦袢の下にぐいっと押し込んだんですよ。」
もう、すでに信じる信じないの問題ではなかった。私はまた、身を乗り出していたらしく、力が抜けるとぐたりと椅子の背持たれに倒れ込んだ。
「どうです、野村さん、祖父のキンバリイ、見ますか?」
「ええ、是非」
店主は踊るように奥へ行き、箱を持って帰ってきた。
エメラルドグリインのビロオド張りの、美しい箱である。キンバリイ社のロゴタイプが入っている。左に蝶つがいがついていて、かたりと音を立てて開いた。
「はあ、これは…大変素晴しいですね」
金の時計である。しかし金の色が変わっている。ともかくあの、悪趣味な泥棒の時計とは、光り方からして違う。そして文字盤にはめられたダイヤモンドが、全く嫌味でないようにそこにいた。
「これほどのものは、今探そうにも探せませんよ。祖父は、目だけは高かったんです」
そして店主はうわごとのように、はたいてしまったのは、やりすぎでしたかねえ、と言った。
3
近頃では、ほぼ三日に一回は島中野時計店に顔を出すようになってしまった。なにしろ、店主とうまが合う。店主は見かけ以上に知識人であり、話すこと全て興味深かった。
高松はというと、これも本当に仕事をしているかどうかも怪しい程にこの店に入り浸たっている。だからよく、行き当たってしまう。騒々しく動き回っては私を困惑させ、店主を笑わせている。
近頃知れたことがある。この高松は三人の中で一番年が若いのである。店主が三十三、私が三十二で学年は同じになるが、なんと高松は未だ三十になったばかりなのである。しかしそれが判明したところで高松の態度が改まるはずもない。年寄りと罵られるくらいが関の山である。
とにかく、これほどこの店に出入りするようになっても、まだ一度も島中野のご子息というものを見たことがない。というのは、この店は島中野親子の自宅であるが、このすぐ近所に店主の親の家がある。全く隔世遺伝よろしく、店主の父と、店主の子息は仲がいいらしい。いってみれば『孫に目がない祖父』と『おじいちゃんこ』の関係である。そのため、学校が引けると子息は、祖父の家にただいまを言う。そして会社員の祖父の帰りを、祖母と共に待つ。そして祖父に送られてこの店に帰ってくる。それが午後七時。私はどんなに遅くとも五時には引き上げてしまうのでこの子息と会うことがないのである。
「それと私は煙草を吸うから」
と店主は言う。
「ぼうずは煙草が嫌いなのです。だから私も、七時以降は禁煙しているのですよ」
そして今日も、私は島中野時計店にいる。今日は高松はいない。店主が、造詣の深いオペラについて講義してくれていた。
時は午後三時になるかならないか、くらいであった。
店の入り口の扉が開いた。私はすでに所定の位置になってきた、扉を背にした椅子に座っていたので、単に客が入ってきたのだと思った。私が、背を向けたまま判別できるのは高松くらいのものである。
「おい、どうした」
店主がおおよそ客に放つ言葉とは程遠い事を言ったので、私は振り返った。
小学生である。四五年生くらいか。利発そうな少年で、体が小さく、漆のように光る学校鞄を背負っているが、どうにも逆に抱えられているように見える。髪の毛の色が薄く見えるのは逆光のせいだけではないようである。江戸川乱歩の小説の、小林少年といったらこんな感じかと思わせる。
「ただいま」
ああ、と私は了解した。これがその『おじいちゃんこ』である。
「いらっしゃいませ」
あまり愛想良いとは言えないが、しっかりと自分から挨拶した。
「こんにちは。島中野さんの、息子さんだね?」
「はい。こんにちは。…あ、野村さんですか?」
「そうそう。ちゃんと挨拶」
店主はまだ挨拶をさせる気である。
「どうも、いつも父がお世話になっております」
「いえいえいえ、こちらこそ」
動揺しながら私は答えた。近頃の子供はこんなに立派なんだろうか。
「野村さん、これがうちのぼうずの琢巳です。」
「はあ、たくみくん。どうも」
琢巳少年は割合自然にニッコリと微笑み、きりりと父親を睨んだ。
「父さん、煙草」
「お、ああ」
と、店主は吸っていた煙草を灰皿でもみ消す寸前で、
「え、おい、お前の帰りが妙に早かったのはそっちの都合だろう。私が煙草を消すのか?」
「僕のいるときに吸わない、というのが条約でしょう」
なんだか店主が押されぎみである。私は可笑しくて小さく笑っていた。
「…で?どうしたんだ。じいさんとばあさん、何かあったのか?」
「いえ。僕が父さんに用があって。おばあちゃんのところには今寄って、言ってきました。」
「えらいねえ、琢巳君は。おじさん、同じ歳の頃、そんなにしっかりしてなかったなあ」
「でも、僕からすれば、画家になっているなんて、それこそすごいなあと思いますけど」
何とも隙のない返事である。私があっけにとられていると、
「死んだ妻の教育なのです。口だけ達者にしたかったらしくて」
と店主は頭をかいた。
少年は、すばしこく店の奥へ入ってゆき、ちーんと音をさせて仏壇に向かったようである。そして水の流れる音がしたところをみると手を洗いうがいをし、たまごパンを袋ごと下げて店先に戻ってきた。そして、じゃあ野村さんにも聞いてもらおうかしら、と言っていつもは高松が座る席によじ登った。
間近で見ると、よくよく色素の薄い少年である。髪は元より、まつげに至るまで金糸のように透き通っている。少々痩せすぎだが、顔は大変可愛らしい。
「で、どうしたんだ?」
たまごパンをくわえる息子を見下げる店主は、ただの子煩悩な父親である。
「学校にね、七不思議とかってあるでしょう、大抵」
「七不思議。」
私と店主は顔を見合わせた。
「うちはええと、音楽室のピアノと」
「夜に勝手に鳴るの?」
「そのとおり。それと十三段の階段と、有名なのは理科室の笑うがい骨と…まあいいや。とにかくその中に近頃、八つ目の『血染めの柱時計』ていうのが増えたんです」
増えたというのはよく分からない話だが、琢巳少年によると、その柱時計は校長室の前の廊下に立っている、随分と古いものであるらしい。重厚な木材で作られており、古さゆえの艶も出て、立派な姿をしている。
「背は…そうだな、父さんくらいあります。」
「ほう、大きなものだね」
「胸の辺りに寄せ木細工がはめ込まれていて、僕は大好きなんだけど…」
「血染めの、っていうのは何故なんだ?」
琢巳少年は、自分を見つめ続けている画家に、不意にたまごパンを差し出した。
「振り子時計なんだけど、その振り子の所にいつの間にか、赤い血の筋がついていたんです。」
「へえ。誰かのいたずらなんじゃないのかい?学園の超常現象をわざと作ってみせて、驚かせたかったとか」
私はたまごパンをほおばりながら言った。
「そうですか…?僕は、わざわざ八つ目の不思議なんて神秘性が減ってしまうし、つくる必要ないんじゃないかと思ったんですけど…」
なるほど、そう言われればそうである。例えば不思議が六つしか無かったというならまだ分かる。しかしすでに通りのいい七不思議が揃っているのに増やす必要はなさそうである。子供に理論で負けてしまうとは。
「琢巳が見ても、それと分かるくらいの血の筋なのか?」
「ううん、そうだなあ、あんまり赤くはないです。なんだか、枯れたような色ですよ。なんだかとっても、古い血の色っていうような。今学校はその噂でもちきりなんです。」
店主は、急ににやりと笑った。そういうときの顔は、琢巳少年と似ている気がする。
「じゃあ、ゴリラはさぞ、大変だろう?」
「大変どころの騒ぎじゃですよ、父さん」
「学校に、ゴリラがいるのかい?」
ゴリラといえば、この国には上野の動物園に二頭ほどいるだけの珍獣である。
「あはは、今の会話って、そう聞こえますね!」
琢巳少年が爆笑しだした。
「こいつの学校で、去年遠足で上野へ行ったんですよ。もちろん、ゴリラを見に動物園に行ったらしいんですがね、」
「僕らが、うわーゴリラってこれかー、って、ふと横を見ると、うわー、担任もゴリラだあって事になっちゃって」
「あ、似ていたのか、担任の先生が」
「はい。それからあだ名がゴリラ。三好先生って言うんですけど、今じゃ職員室でだって、ゴリラで通ってるんです。僕、ゴリラが二年連続担任なんです。」
なんだか妙な絵が浮かぶ。生徒たちに、真面目な顔で教科書を読んで聞かせる珍獣。
「それがね野村さん、体育が専門の教師なんですが、これがからきし『怖い話』っていうやつが苦手な男なんですよ。」
常日頃は、竹刀を持って校内を濶歩する大丈夫が、生徒の噂話やそのての本を知ってしまうと、たちまち少女のように怯えるのだという。
「で、父さんに頼みっていうのは、ゴリラがらみの事なんです。」
店主は眉を片方上げた。
「ゴリラの、今回の怯え方は尋常じゃないんですよ。あんまり怯えて授業も落ち着いてないし、夕方になると、すぐに帰ってしまうし、勝手に休むことも増えてしまって。いや、休むのは僕らにしたら嬉しいんですけど、ゴリラ、やたらといらいらしちゃって、僕らに八当たりするんです。この間なんか、休み時間に守生君が血染めの柱時計の話をしていたら、急にゴリラが入って来て、クラス全員連帯責任だー、って全員で校庭二十周」
「そんな無茶な」
あまりの事に、私は笑ってしまった。
「笑い事じゃあないんですよ、野村さん!僕らの中では血染めの柱時計の事は禁句なんですけど、何といっても、学校中の噂だから。どこかで聞こえたらこっちに八当たり」
「ひどいものだな!」
なんと勝手な教師だろう。軍隊上がりだろうか。
「それで?私に頼みというのは?まさかゴリラをどうにかしてくれというのじゃあないだろうな?」
「僕の組で、相談したんです、どうにかならないかなって。で、ゴリラをどうにかするのは僕らじゃあ無理だから、噂をどうにかすることになって」
「…柱時計か」
「そう。で今日、校長先生に直談判したんです。柱時計をうちの父さんに修理に出して、この血の筋が何なのか確かめてもらいましょうって。校長先生は割とすんなり許してくれたんですけど…」
「えっ、その柱時計、この店に来るのかい?」
私は多少心踊るように言った。
「でも…多少厄介な事になってしまって」
「どうしたんだ」
「校長が、『じゃあ担任の先生に手伝ってもらいなさい、私から三好先生には伝えておこう』なんてことに…」
「ええっ!」
「じゃあゴリラもここに来るのか?」
「はい」
これは意外な展開になってきた。しかし私にとっては見てみたい双方のものがやってくるとあって、楽しみで仕方がない。
「相当、ゴリラ抵抗したらしいです。でも校長が言うことだから断わりきれなかったらしくて、後で守生君と優之輔君と、あと二三人と一緒に荷台を引いて来ると思います。ああ…守生君たち、大丈夫かなあ」
「時計は大きいものなあ」
「違いますよ野村さん、ゴリラに殺されてないか心配なんです。僕なんて言い出しっぺだと思われて、さっきだって命からがら逃げてきたんですから!」
まるで鬼か悪魔である。そうして話しながら、四時になったくらいだろうか。
どんどん、と扉を叩く音がする。店主がどうぞと答えたが、どんどん、と繰り返すばかりである。私が立って、扉を開けた。
一瞬、私は恐怖で二三歩ほど後じさった。
小山のような塊が入り口を塞ぐように立っている。大きな縦長の箱を抱えて、目を光らせている。…ように見えたのは逆光のせいらしく、よくよく見ると、高松よりも多少背丈が低めで、しかし体格のいい男が、柱時計を抱えて立っているのだった。後ろには六人程の小学生が、半べそをかきながら立っていた。大男の顔は…まさに珍獣の顔である。
「島中野君のお父様は御在宅ですか?」
珍獣が口をきいた。
「ああ、三好先生、どうも御無沙汰しております」
店主は明るげに声を上げた。琢巳少年は身構えている。
「この度は、急に大勢で押しかけて申し訳ありません。事情は…琢巳君、きちんとお父様に説明したのか?」
ゴリラがぎょろりと目を動かして琢巳少年を見た。彼はすーっと走って半べその級友の側に立った。
「ええ、事情は聞きました。これがその、血染めの」
「はい、そうです!」
店主の言葉をかき消すようにゴリラは急に大声で言って、手にしていた柱時計をごとりと落とした。
「ああ!こんな年代物の柱時計をそんな、粗末に扱ってはいけませんな!」
店主は柱時計に駆けより、状態を見るように見回した。一方ゴリラは手を拭うようにすり合せている。この時計を持っていた手が、さも汚れているように。
「ははあ。これですね、血の筋というのは」
と店主が言ったので、私と子供達は時計の振り子が見える位置に移動した。動かないのはゴリラだけである。
確かに若干赤い筋が数本垂れた痕がある。血の筋と言われれば、そう見えないものでもない。子供達はそれを、訝しげに見ている。
店主が、右手で振り子に触れた。そして立ち上がって文字盤を触り、微かに笑った、ように私には見えた。
店主は琢巳少年を呼んで密かに何事か囁いた。琢巳少年は了解した顔で再び子供達の輪の中に戻った。
「先生、実は…先程息子からこのお話を聞きまして、これは私だけの手に負えるかどうかと思い、こちらの先生をお呼びしたのです」
と、店主は私を示している。
「?」
「はあ、時計修理の専門家の方か何か…?」
「いえいえ、大学で心霊研究をされている、野村先生です」
私は全く訳が分からなくなって、おどおどと店主の方を見た。しかし、私よりもおどおどし出した者がいる。ゴリラである。
「しっ、心霊!」
「その世界では大変著名な先生でして、私はちょうど親しくさせて頂いておりますのでお電話したら、来て下さるというので、ねえ、先生」
店主に腕をぐいぐいと掴まれて、私は仕方なしにうなずいた。
「でも先生は、御病気で喉を潰されておられて、小声でしかお話になれないのです。ねえ、先生」
なんとなく、私は了解してきた。大学の教授に見えるかどうかは別として、とりあえず私は喉を指差し、ゴリラに頭を下げた。全くこの店主には驚かされる。
「ですから先生のお話は、私が代弁しましょう。え、何ですか、先生」
店主はかなりわざとらしく、耳を私に近づけてきた。私は口を手で隠しながら、何かを言うふりをした。
「…はい、はい。三好先生、こちらの野村先生がおっしゃるには、やはりこの時計からは大変高い濃度の霊力をお感じになるそうです。」
「ひっ!」
ゴリラは時計から相当遠くへ退いた。
「先生はレイシをすることが出来ますので、やって頂きましょう」
「レイシ?」
この場にいる、店主以外の全員が尋ねた。私も、声こそ出さなかったものの、思わず店主の顔を覗き込んだ。一体、どういう身振りをすればいいのか分からない。
「霊を視る、霊視です。先生はその道をも極めていらっしゃるのです。ねえ、先生」
ねえ、先生と言われても何をどうすればいいのか分からない。私は店主の目に語りかけながら一応うなずいていた。多分、落ち着いて見れば私がそんなことなど出来ず、店主の言うようにうなずいているだけだということは知れるだろう。しかし、この素人役者に騙されかけているのは、恐怖で全く平常心を失っている男なのであった。店主はその辺りも含めて何やら秘策を練っているようである。
「それでは、多少準備がありますので、先生、奥へ参りましょう。ああ、琢巳、お前達は外で遊んでおいで」
「わ、私は…?」
「三好先生はそこに座ってお待ちください。では。」
と、店主は私を押すようにして店の奥へ連れて行く。琢巳少年も非常にすみやかに、級友達を誘導して外へ出て行った。店先には、大きな柱時計と、出て行く双方をおどおどと見送るゴリラが一匹。
「島中野さん!」
私は堪らずに小声で叫んだ。
「一体、何のつもりです!心霊の権威って、私演じきれる自信ないですよ!」
「大丈夫ですよ」
店主は、私と地下へ続く階段の扉の中に入り、こちらも小声で言う。
「でもあなたには、ひと芝居うってもらわないといけません。そうですね、じゃあ文字盤に手を当てて、目を閉じてうーん、というふうな顔をして下さい。そうしたら、後はさっきのようにして私が全部話しますから。とても大層な事実を霊視してしまった、っていう顔をして下さいね。」
事も無げに言うが私には全く自信がない。
「いいじゃないですか。琢巳たちの仇をとってやろうというのです。」
どうやら先程琢巳少年に耳打ちしていたのはそういう内容らしい。
「さあ、あんまり時計と二人きりにしておくと帰ってしまうかもわかりませんから、行きますか。」
「ち、ちょっと島中野さん…」
店主はどしどしと出て行ってしまった。私が、しぶしぶ廊下に出ると、窓から琢巳少年とその級友たちがニヤニヤ笑って私を見ていた。
「野村さん、がんばって下さいね!僕ら、外からこっそり覗いてますから。」
私はとても弱々しく手を上げてそれに答えた。
店内に戻ると、どうやらゴリラは今にも逃げ出そうとしていたようで、店主がその腕を引いて引き留めているところだった。
「…あ、ほら三好先生、野村先生も戻られたことですし、さあ、始めましょう!」
ゴリラは私の姿を見て、観念したように力を抜いて椅子に座った。私は店主の合図を見て、時計の方へ近づき、手を文字盤に当てると、うーんという顔をしてみた。そして、眉間に皺を寄せて、口に手をやってみた。店主は、ゴリラから見えない位置で『いいですよ!』という顔で笑い、それに反して、さも心配そうな声で、
「どうしました?どうなんですか野村先生?」
と言いながら近寄ってきた。
私は店主の耳元でぼそぼそ、と言った。実際に『ぼそぼそ』という単語を喋り続けたのである。
この店主は元来、役者である。ぼそぼそと言っている私でさえ、自分が本当に何か恐ろしい事を喋っているかのような幻覚にとらわれた。店主は小さく頷きながら、徐々に顔をしかめていって、急にはっとしたように私の顔を見たり、「それは」と声を出して逆に私に「ぼそぼそ。」と言ったりする。これがどれほど迫真かは、ゴリラの顔を見れば分かる。今やゴリラは唇までも青かった。
「三好先生」
と店主はゴリラに向き直った。
「どうやら野村先生には全てが見えてしまったようです。では、先生に代わってお話することにしましょう…」
以降の話は店主が語ったものである。私は、すらすらとここまで語る店主を見て、少し呆れた。
『この柱時計は、前々任の校長の頃に置かれたものである。当時3年生であった一人の少女があった。
少女は、大変この時計が好きであった。重厚な出で立ちに心引かれて、自分から教諭に時計の掃除係を立候補したほどである。さてその夢は叶えられ、少女はこの時計の管理をまかされるようになった。特にこの寄せ木細工の部分はお気に入りで、丹念に丹念に、いつでも艶が絶えないように掃除していた。
その頃学校中で、七不思議の話が広がっていた。皆、真偽を確かめたいと思ってはいたが、しかし誰もそれを怖がって確かめようとはしない。そして、こんな話が持ち上がった。
「毎日放課後遅くまで残って時計を掃除しているあの娘を騙して、一晩学校に閉じ込めておけば、次の日に何かあったらわかるのではないかしら」
無邪気な子供の悪戯ではあったが、それでどうなるかなど、後先のことを考えてはいない。
少女と同級の七八人の生徒達によって、その夜、さっそく実行に移すことになった。少女はどんなにきつく五時までには帰るようにと言われても、六時まで掃除をしている。六時半に見回りの用務員がやってきて、柱時計のある校長室前の廊下の両端の扉の鍵を閉めてしまう。少女はそれに間に合うように帰るのである。それを知っている級友たちは、ならば、とその日の放課後、少女よりも先回りして時計の針を一時間遅らせてしまった。
当時校長室の並びには理科室があった。それは少女が閉じ込められようとしている廊下の間にある。そこには、今の七不思議とは多少違うかも知れないが、七不思議の中でも一番と言われている怪談があった。「笑うがい骨」…それはとても恐ろしい怪談である。夜に一人で理科室の前を通ると、こつ、こつ、こつ、と扉を叩く音がする。無視していればいいが、何かしら返事をしてしまうと、こういう声がする。
「手伝っておくれ、手伝っておくれ」
何を手伝ってほしいのかと問うと、
「この部屋から出たいのだが、私の力では戸を叩くのが精一杯なのだ。手伝っておくれ、手伝っておくれ」
しかし、それではと理科室の扉を開けようとしても、扉はびくとも動かない。
「どうやらこちらからしか開かないようだ。しかし私は力が出ない。扉の横の壁の足元の小窓から、私を引っぱり出すか、お前様がこっちに来るかしておくれ」
それを聞き入れて横の小窓に手をのばすか、あるいは体を入れようとすると、急にがい骨の腕がにゅうと延びて、がい骨の標本が子供の体をぐいと理科室に引き入れてしまい、生きたまま頭からむしゃむしゃと食べてしまう。
もしもがい骨の頼みを断わったら、
「そうか。お前様も私の頼みを聞き入れるほど力持ちではないのだね。ならばそれににあった体にならなけりゃ」
と声がして、その者の体の肉がべちゃりと腐って落ち、すぐに骨だけになってしまう。
そしてそれらが済んでしまうと、
「ああ、楽しい。ああ、楽しい。でもまだ肉が足りない。でもまだ肉が足りない。」
と言いながら、高らかに笑い声がして、朝までがい骨の歯がかたかたいっているという。
少女は、その日の放課後に、いつものように掃除をしていたが、柱時計が
ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん
と四度鳴った時、ああ今日は、時間がたつのが長いなあ、うれしいなあと思った。その時本当は五時だったが、少女は全く気がつかなかった。そして、
ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん
と柱時計が五度鳴った時、さあ、最後の一時間だから、綺麗に仕上げをしようと思った。本当はすでに六時だった。
そして、本当の時間が六時半になった。用務員が、いつものように確かめもせず、まず西の廊下の扉の鍵を、かたりと閉めた。しかし少女は気がつかない。そしてそれからしばらくして、東の廊下の扉の鍵も、かたりと閉めてしまった。しかし少女は気がつかない。すっかり五時半だと思っていた。そしてとうとう、柱時計が
ぼーん、ぼーん、ぼーん
ぼーん、ぼーん、ぼーん
と、六度鳴った。少女はすっかり後片付けをして、鞄を背負って廊下の西の扉に向かった。引き戸に手をかけて力を入れると
がちゃり
と、鍵がかかっている。どうしたのかしら、今日は用務員のおじいさん、とても早く西の扉を閉めてしまったのね、と少女は今度は廊下の東の扉の方へ向かった。そして扉の前に来ると、また引き戸に手をかけて力を入れた。すると
がちゃり
と、また鍵のかかっている音がする。そこでようやく、少女は自分が閉じ込められてしまったことに気が付いた。廊下の窓は大変高く、少女の背丈では届かない。時計掃除に使っている踏み台を使っても、窓の下は竹がたくさん生えていて、しかも先日切ったばかりで、先端は竹槍の様になっている。とても飛び降りられなかった。
少女は困っていろいろ方法を考えたが、どうにもここから出られたものではなかった。仕方なしに、今日はこの廊下で一晩明かすことにした。しかし少女が不幸だったのは、少女が七不思議の全部を、知らなかったことだ。
次の日の朝、用務員が一番最初にやってきてこの廊下の扉を開けると、
かたかたかたかた
という音がした。なんだろうと思い、廊下を覗きこむと、柱時計にしがみついている少女を見つけた。少女は笑いながら、しかし目は恐怖で見開いたまま、歯をかたかた言わせながら、
「手伝っておくれ、手伝っておくれ」
と、うわごとのように繰り返していた。
その後、少女は心が狂ってしまって、入院してしまった。それから数日後、少女は投身自殺をして、死んでしまった。
さてそれから、学校では少女を自殺に追い込んでしまった生徒たちが次々に怪我をするという事件が起こって、少女の呪いだという噂が学校中に広まった。そして、少女を供養する意味も込めて、皆であの柱時計を交代で掃除し大切にすることになった。……』
「そして学校では、おかしな事はしばらく起きなくなったそうです、しかし」
店主はじいっとゴリラを見つめて、一言づつじっくりと溜めながら言った。
「近頃の生徒はその事件を知りません。そのうち、誰もこの時計を大切にしなくなりました。少女の呪いは、またしてもどろどろと溜まって来ていたのです。そして、先日、大変な事が起きました。」
すでに店主はゴリラをやぶ睨みである。ゴリラは恐怖に顔をひきつらせたまま、後じさりしている。私にはまだ、ここまで大がかりに演技して店主が何をのぞんでいるのか分からない。しかし店主の大げさな演技も、佳境に入ったようだった。
「この時計を、何者かが横倒しに倒してしまったのです。しかもその犯人は、自分の身を守るために、この寄せ木細工の部分を力一杯踏み付けたそうです。そして、少女の呪いは、復活してしまった。」
店主は、つかつかとゴリラに近づき、急に耳元へ顔を寄せてささやく様に言った。
「犯人には聞こえているはずです、少女の…『手伝っておくれ、手伝っておくれ』という声が…!!」
「ひいいい!」
ゴリラはどすんと腰を抜かして尻もちをつき、すいませんすいませんと大声で叫んだ。どうやら泣いているようである。
「わ、私です、私がこの柱時計をた、倒しましたぁっ!!」
一番驚いてはいけない私が、一番驚いた顔をしてしまった。店主は落ち着き払って頭を床にこすりつけ続けるゴリラを見下した。
「…三好先生、あなたはご自分がなさった罪の意識で、いても立ってもいられなかったのですね。それで血染めの柱時計の噂をする生徒に辛く当たった。…しかしそんなことでは、この呪いが解かれることはありませんよ。そんなことをすれば、逆効果になります。ねえ、野村先生?」
急に来た。私はあせりながら店主に向かって頷いた。するとゴリラがいきなり私の足にしがみついて来たので、私は転倒しそうになるのを驚きながらこらえた。
「の、野村先生、救けて下さい!…あの時は、急いでいて、よそ見をしていて…思いきりぶつかってしまったんです!わ、悪気はなかったんです、救けて、救けて下さい!」
私は当惑しきって店主を見た。店主はゴリラの前に屈み込んで言った。
「三好先生、それではこの時計に謝ったらいかがです?それで、これからは生徒を思いやってやれば、それで少女も納得するでしょう。ねえ、先生?」
これには私も頷ける。私は学者気取りでふむふむといったふうに頷き、ゴリラを見た。ゴリラはあわてて柱時計に向き直り、許して下さいを連発しながら土下座した。見ていて多少、やりすぎの感が否めないが、まあこの無法教師には良い薬かもしれない。
「では今日は、一日柱時計をお預かりすることにしましょう。明日、取りにきていただけますか。その頃には呪いも解けていることでしょう。ねえ、先生」
私は大きく頷いてやった。かわいそうなほど怯えたこのゴリラを、慰めてやるにはいいだろう。
「は、はい。それでは明日、また伺います。どうも、あ、ありがとうございました…」
ゴリラは何度も何度も頭を下げて、店を出ていった。
私はくたくたで、へたりと椅子に崩れ落ちた。
「こんなに胆の冷えたのも久方ぶりです。ああ…疲れた…」
「どうです、私の作り話もまんざらじゃあないでしょう?」
店主は仕事の後の一服といったように、胸ポケットの煙草入れから煙草を出してくわえた。
「一体、どこまでが作り話なんです?」
「最後の所以外、全てですよ」
「最後?少女が狂って自殺したというのは本当…?」
「そこは最後じゃあ、ないでしょうに。三好先生が時計をぶち倒したというの以外、全て嘘です。」
私は呆れて、ぽかんと口を開けてしまった。
「はあ…それ以外はあなたの…」
どやどやと声がして、子供たちが店の入り口から入って来た。一様に笑い転げている。
「父さん、さすがですね!」
琢巳少年が店主を褒め称える。
「あのゴリラの顔!」
「土下座して泣いてたな!」
「ざまあみろ!」
「こら、君たち」
店主は多少真面目な顔に戻って言った。
「確かに、三好先生は八当たりして君たちに辛いことをさせたりしたけれど、それは時計を倒してしまったことをとても気に病んでいたからゆえだ。実際、彼は良い教師だと私は思うけれどなあ。」
「僕らもゴリラが嫌いなんじゃないんですよ、父さん」
琢巳少年が理解した顔で言った。しかし私にとっては、ゴリラが良い教師か悪い教師かなんてことは、この際どうでもいいことである。
「さあ、島中野さん、説明してもらいましょうか?」
「ふふふ、野村さんはいつもそうですね」
「父さん、煙草」
琢巳少年に煙草をもぎ取られながら、店主は私に笑いかけた。
「私に分かったのは、三好先生がこの柱時計に力一杯ぶち当たったということだけです。それじゃあというので、まあ懲らしめる意味も含めて、あんな芝居を打ったわけで」
「そうじゃないでしょう」
私も、ここにいる子供たちも、聞きたいことはそれではない。私には、店主が長々と怪談話をしている間に、さてはさっき、初めてこの柱時計に触れた時点で、店主は『見た』のだな、と気がついた。琢巳少年以外の子供たちは、何故店主がゴリラの過去の素行を知ったのか、など疑問にも思っていないだろう。子供はえてしてそうである。大人は分かるんだ、何もかも。そう考えているものだ。
「血染めの柱時計、ですよ」
「ああ、」
店主は、あまりにも自分には当然の事柄だった、と言わんばかりに頷いた。
「そのことですか。見て分かりませんでしたか?」
「いいえちっとも」
私はかぶりをふるった。
「これはですねえ、ほら」
と、店主は柱時計の前に屈んで、指で血の跡をなぞった。子供たちが悲鳴に似た声を上げる。店主はお構いなしに、その指を私の鼻先へ突き出した。
「な、何です?」
「臭いを嗅いでみて下さい」
私は、おっかなびっくり鼻を動かした。ぶわりとまだるこい臭いがして、その中にきしんだ臭いも嗅ぎ取れた。
「…これは…」
「たらりと垂れていた原因は油。機械油でしょうな。そして、少し鉄臭いでしょう。」
「…え?」
はっとして、私は思わず柱時計の振り子に駆けよった。そうだ、この色は血などではない、これは…
「さび、錆びじゃないですか、この赤らしく見えているのは!」
「油と混ざって、多少どす黒く見えますがね、これはどうみても錆びですよ。最初に見たとき分かりましたよ、私には。あのゴリラ先生が時計を倒した時、運良く壊れはしなかったものの、たぶん歯車を収めた部分の側面でも、割れてしまったんでしょうな。そして、充分過ぎるほど潤っていた油と、鉄の側面が酸化したか何かでぼろぼろになっていた錆びが混ざって、たらりと垂れて来たんでしょう。大の大人がそう騒ぐ問題じゃあないのですよ」
私は脱力して、大きく肩を落とした。
「琢巳、明日学校で、この事を皆に教えてやるといい。八つ目の七不思議はきっと立ち消えると思うが。」
「なんだか種明かしされた手品みたいです。知りたい知りたいと思っても、知ってしまうと詰まらないなあ」
「ゴリラにもいつか教えてあげなさい。あのままじゃあ、ちょっと遣りすぎだから。」
私は店主を睨んだ。
「その種明かしをされたら、ゴリラきっと、この店に殴り込んで来るんじゃないですかね?」
「その時はまた、野村先生にご登場いただくとしますか。」
しれっとしたものである。なんだか馬鹿馬鹿しくなって、笑いあう少年たちを見ながら、私もちょっとだけ笑った。
「でも父さん、何で『笑うがい骨』の話、知っていたんです?それに昔、校長室の並びに理科室があったことまで。みんなで、父さんは下調べなんかしてまでゴリラを騙しているなあって、言っていたんだけど。」
「え、いやあれは即興で、…即興…」
店主はしばらく空を見つめていた。
「…いや?即興じゃないな、時計が、」
私は漠然と店主を見ていたが、はっとするほどみるみる店主の顔色が変わって行く。
「…柱時計の見た…記憶…?」
手伝っておくれ、手伝っておくれ。
おいおい、冗談にもほどがある、と私は店主に笑いかけたが、店主はいつまでたっても表情を強ばらせたままなので、とうとうその笑いは行き場がなくなって私の顔をも強ばらせた。
4
柱時計の一件以来、妙に琢巳少年に会うようになった。祖父母の家に行きただいまを言って、四時頃にはもうこの店先にいる。さぞおじいちゃんは寂しがっているだろうにと問うと、
「おじいちゃんも、僕を毎日毎日送ってここまで来なくてもいいから、体が楽になって嬉しいんじゃないでしょうか」
などと言っているが、きっとそんなことはない。孫の面倒を見ているほうが、どんなに大変でも、嬉しいに違いない。
実際に琢巳少年の早い帰宅を悲しんでいるのは、他でもない、島中野時計店の店主、紋十郎氏である。ヘビイスモオカアのこの店主は、息子の前では吸わない約束を課されている。帰宅が早ければ早いほど、店主は煙草が吸えないので、近頃では、店に根を生やしていると高松にからかわれるほどだった店主が、気付くと外へ出て、白い煙を上げていることがある。
今日は昼前に、私は手に寿司を下げて新宿にやってきた。御苑の方に知り合いが居り、その知り合いに聞いた旨い寿司屋でつつんでもらったのである。幾つ包みましょうかと聞かれ、私はすっと黙ってから、じゃあ三つ、と頼んだ。店主と、私と、もしもあの荒くれた刑事がいた時の為の保険である。もしいなくても、育ち盛りの琢巳少年が処理してくれるだろう。
そして少し汚れた裏路地に入ると、大理石張りの美しい店が見えてくる。今は、ショウウインドウには皮のベルトを赤、青、緑のはっきりとした色に染め上げた三本の腕時計が飾られている。私は、それを少し覗いてから、入り口の取っ手に手を掛けた。
「馬鹿野郎!」
思わず反射的に手を引っ込めた。その途方もない大声は、店内からしたようである。きっとそれは
「でももあさってもねえ!ぐずぐずぐずぐずそうしていたって、解決になるものじゃあねえだろう!」
私はその剣幕に、扉から二三歩身を引いた。どうしたというのだろう。声の主は確かに高松だ。しかし…高松がいくら乱暴とはいえ、店主に馬鹿野郎とまで怒鳴るのを、私は聞いたことがない。決心をして、扉を引いた。
確かに、高松はいた。浅黒い肌が、心無しか色を欠いている。目はぎょろりと血走って、鼻で荒く息をしている。この表情を見て、楽しそうだなどと見間違う人間はないだろう。どこからどうみても怒髪天を抜いている。その側で、こちらを見ているのは店主である。私を見て、こちらは笑っている。いや正確には泣き笑いといった表情だ。この二人を見て、高松が怒鳴っているのが店主でなかったのは見てとれた。何故なら、高松と店主は向かい合っておらず、目線もばらばらだからである。その高松の視線の先にいるのは、怯えた小犬、かと見間違う若い男だった。さて見覚えがない。どこか女性的な雰囲気の若者で、神経質そうに長い前髪を耳に何度も掛け直している。何度かちらりと視線を上げて高松を見ては、閻魔大王のようなその顔に、再び慌てて視線を落とす。
「野村さんいらっしゃ…」
「ええ!どうにか返事したらどうだ!」
店主は声を遮られて、視線は私に向けたまま、むぐと黙ってしまった。
「そうは言いますけど師匠…」
「じゃあなんでお前はここに来たんだええ?」
「そりゃ来ましたけどぉ…」
「あっ、吉野さんだ」
私がはたと気付いて声を上げると、閻魔が今にも目から音が鳴りそうなほどぎろりと私を睨みつけた。やっと審判の視線から逃れた若い男は、これ以上無いというような安堵の表情で私に向き直った。
「はいい、僕は吉野ですが、どちらさまで?」
「あっ、ええ、野村と言います。あなた、高松さんの後輩の、吉野さんでしょう?一度私、本部に電話させていただいたんですがね」
「あー!じゃあ挿絵画家の野村時之丞さんですか、うわあ、感激ですう!」
「よぉしぃのう!」
ついに切れた感じの高松の怒鳴り声で、和みかけた空気がまた、ぎしりと固くなった。
「おい、お前はここに、野村氏に会いに来たのか?どうなんだ!」
「もういいじゃあないか、高松さん。彼がいいというのに、あなたが怒鳴っていたって始まらない」
少し声を張って、店主が仲裁した。高松は勝手にしろと吐き捨てて、席を立って皆に背を向けた。私はやっと、店の中に入ることが出来た。
「どうしたのです、一体。あの男が怒鳴っているのはいつもの事だが、あそこまで怒っているのを見たことはない」
「ええ、まあね」
店主は私のいつもの席を勧めてから、しょんぼりと座っている吉野君を見た。
「でもぉ、僕は仕方がないと思うんですぅ。貴美子さんは美人だし、僕よりもっと似合う人が現われたっておかしくないしぃ…」
「だからってそれを指くわえて見てやがるのかお前は!」
「だからもうよさないか!怒鳴ってどうなるものじゃあないだろうに!」
店主もとうとう声を荒げて、高松はぶすりと黙ってしまった。
「なんだい、貴美子さんというのは。吉野君のガアルフレンドかい?」
「ええ…まあ」
吉野君は頬骨が上がるのを隠しきれないように照れ笑いしている。私は多少彼を了解した。上司がどんなに怒鳴っていようと、今日の晩ご飯は何だろうと平気で考えられる型の人間のようだ。まあ、そうでなければ高松の下でなど、働けたものではない。
「事情を説明してくれませんか。何か役に立てるかもしれない。」
「はあ…。実は、僕は先日、貴美子さんにプロポオズをしましてぇ」
「おお、凄いな。一体、何処の誰なんです?その貴美子さんは。」
「交通課の婦警をしているんですぅ。あ、写真、見ます?」
店主もそれは見ていなかったらしく、私にも見せてくれないかといいながら、吉野君の財布を覗き込んだ。
出て来た写真の女性は、確かにたいそう美しい女性だった。顎がすっと尖っていて、鼻も小ぶりで美しい。目は少々細めだが、上品な顔だちである。
「ははあ、これは美人だね」
「でしょうー。交通課一の美人なんですから。」
「で、どうだったのだい?首尾良くいったのかい?」
「は、はい。私で良ければ、なああんて言ってくれたりしてぇ」
今にもどろどろ溶け出しそうである。私は少し呆れてきた。
「で?なんで君はそのことについて高松さんに怒鳴られているんだい?」
またしゅんとして小さくなった。吉野君は相当単純な男のようだ。
「なんでも、」
と店主が引き継いで話し出した。
「その約束をしたのが一ヵ月前。それから一度も会っていないというんですよ。」
「なんだい、それは。忙しかったのかい?」
「いいえぇ。かえって暇なくらいで」
「今月の交通課は事故数、死者数、どれをとっても過去最低という立派な記録を打ち立てたんだ!」
突然高松が怒鳴ったので、私は驚いて飛び上がりそうになった。
「…らしいですよ。でも、どんなに吉野君が呼び出しても応じないし、そのくせ夜に大家さんの家に電話をしても、彼女は留守だと取り継いでもらえない。」
「彼女、独り暮らしなんですぅ」
これは私も、どう慰めていいのか分からない。はあ、と言ったきり黙ってしまった。
「で、この五月蝿いくせに根は心配している高松師匠が、吉野君を焚き付けて泥棒をさせたのです」
「警察が、泥棒?」
「なにを言うんだ人聞きの悪い。俺はただ、恋人の身辺調査をしろと言っただけだ。勝手に盗んで来たのはこの男なんだぞ!」
高松は多少冷静になったようで、低く響く声で言った。
「師匠が言ったんですぅー、『なんか疑惑の種になりそうなものがないか見て来い』ってぇ!」
「俺は持って来いとは言ってない!」
「まあまあ。で?何かあったんですな?」
吉野君は頷いて、しわしわのハンケチに包んだものを、ごとりと置いた。
「なんだね、これは?」
私が手を出すのもはばかられて不審そうに見ていると、吉野君は神経質にそのハンケチを剥いた。
出て来たのは、二つの時計である。
「腕時計だね。女性用と男性用のようだが?」
「これ、こ、これが、貴美子さんの荷物置きにあったんですぅ!」
急に吉野君の顔がくしゃりとして、目が潤み出してきた。私はおろおろと店主を見て、どうにかしてくれという顔をした。
「いい加減にめそめそするのは辞めろ!」
店主が何か言うより早く、高松が大声で怒鳴りつける。
「そこまでめそめそするんなら、白黒はっきりしちまったほうが楽だろう!ええ?折角真相がすぐに分かるっていうのに、なんでふっきらないんだお前は!」
「怖いんですよぅ!もし分かって、やっぱり疑っているような結果が出たら、僕は貴美子さんと…!」
「悪い方にばっかり考えるのはよしたがいい。ははあ、その審判役を仰せつかったわけですな、島中野さん」
店主は目を私に向けて、無言で軽く頷いた。
「…そりゃあ、島中野の能力をこいつに話したのは悪いと思ってる。でもなあ!」
「いや高松さん、それはもういい。あんたの部下だし、ただならぬ吉野君のことだ。私だって心配だからね」
「でもねえ、吉野さんはそれが知れてしまうのを嫌なんでしょう?無理にそんなこと、すすめることもないでしょう。」
私がぼそりと言うと、高松は私に体を向けて今にも怒鳴るように口を開けた。
「あのう、」
急に、吉野君が上目づかいに私達の方をうかがいながら声を出した。
「男物の方だけ、見てもらおうかと…」
「ええっ?」
「よし、そうこなくちゃな!おう、島中野、それをちょっと見てくれよ!」
高松はいきなり上機嫌に、机に身を乗り出して店主に迫った。
「吉野さん…」
「だって、やっぱり心配なんですよぅっ!この時計、荷物置きに裸で置いてあったんですぅ!どう考えても変でしょう、そんなの!絶対誰かの時計です、誰か男のっ!」
「女物の方はいいのかい?」
店主が、煙草入れから煙草を出しながら聞くと、吉野君は首をぐいぐいと振った。
「い、いいです、そっちはぁ!もしそっちから、別の男との思い出なんて見えたら、もう僕、立ち直れませんから…」
店主は口に煙草をくわえたまま、ふうんという声を出して、私からするとかなり唐突に、男物の時計をさっと手に取った。
「あっ!」
たまらずに、吉野君は声をあげた。
文字盤のごつい、しっかりした造りの時計である。丸みをおびた銀の文字盤周りには、うっすらと目盛が入っている。文字盤は黒で、銀の三本の針がちっちっと音を立てている。十二、三、六、九の数字だけが、白く書かれている。ベルトは黒で、革製である。女物の方も、やや重量感に欠けるものの、ほとんど同じ造りで、上品な代物である。
私も吉野君も、高松までもがじっと黙って店主が声を発するのを待っている。
「あー…」
店主は、それだけ言って、じっと時計を見たまま、また黙ってしまった。
「おおい、そりゃどういう事だよ!何が見えたんだっ?」
「あ、あ?いや、あー。そうだな」
「おい何だ、はっきりしないな、どういう事だ?遠慮はいらん、はっきり言え!」
「そうです、遠慮は…少しして…」
「吉野!」
「うん、そうだな、はっきり言おう。一言で言えば、『浮気』だ」
私は、最初に店主が見せた表情からそうではないかと考えていた。高松は徐々に身を引いていき、どさりと椅子に身をあずけてしまった。吉野君は、みるみる顔が青くなり、せわしなく視線を泳がせると、いきなりばたんと後ろにひっくり返った。
「ここに来るようになって、二人目の卒倒者ですね」
私ははたはたと、団扇を持って吉野君へ扇ぎながら、店主に向けてそう言った。
「そういう人達はかぎって皆、私に問題を運んできますな」
店主は渋い顔で煙草を吸いながら言う。
ここは店の二階の和室である。演技であれ心労であれ、倒れた者はみな、ここに運ばれる習わしのようだ。
私と店主は、とりあえず吉野君の様子が落ち着いたと見て下の店に戻った。高松は憮然とした態度で椅子に座り、ほおずえをついていた。
「なあ、島中野」
おもむろに、高松が声を掛けた。
「さっきの話だ。浮気…浮気な。俺は吉野を知ってる、市村貴美子も知ってる。…なあ、市村は浮気なんかする奴じゃないんだ。そりゃ、本心どうかは分からんが、あの吉野の求婚を受けて、それを無下に出来るような女じゃないことぐらいは分かる。その時計、もっと詳しく見ちゃくれないか?」
店主は少し笑った。
「実はね、高松さん。私は吉野君に謝らなきゃあならない。」
「もしかして、嘘だったんですか?」
私は信じられないという声を上げた。
「いや、そうじゃあないんです。『浮気』というのは嘘じゃない。ただもっと、順序というのがあったかと思いましてね」
「順序?」
「まず知れてくるのは『浮気』というのに間違いじゃない。しかし、それは浮気をしていた記憶じゃなく、浮気、というのに心を奪われているということでして」
「どういうことです?さっぱり知れない。」
私は高松を見て、店主を見直した。
「浮気、浮気、浮気、そればかりだ。推測するに、浮気されたらどうしようという、恋人の浮気を心配するという意味の『浮気』ですよ。実際、前の持ち主の男性が、はらはらしている様も浮かびますしね」
「で?その男の相手は、市村貴美子じゃないのか?」
高松は身を乗り出している。
「違うな。というより、この時計は古いものだ。貴美子さんは、どこか中古の時計屋でこれを手に入れたようだな」
「…ということは、どういうことです?」
私は店主の目を覗き込んだ。
「貴美子さんが吉野君の浮気を心配してるということですか?」
「いや、誰か他の奴の時計を、あの馬鹿が間違えて持ってきた可能性もあるだろう」
高松がぼそりと言う。私はこの男が刑事らしい発言をするのを初めて見た。
「はあ、そうだ。女性用の方、こっちを見たら何か分かりませんかね?」
いつのまにか、火鉢でも囲うように頭を寄せていた私達は、一斉に机の上を見下げた。そこには上品な揃いの時計が、何の事もなく置かれている。
「でも、吉野君は男物の方だけ見てくれと言ったわけだし、」
「構うな。見ちまえ。ここまで来たら同じだろうが」
「そうですよ、今のままでは結局吉野君の苦悩は晴れないわけですから」
もう一度私と高松の顔を見てから、店主は意を決したように、するすると手をのばした。
かたり、と音がして、店主の手に女性用の時計が乗る。
店主の動きが止まった。
「どうした?」
「な、なんです、島中野さん!」
「なにも…」
店主は、じっと持った時計を見たままだ。
「なにも、見えないんです。」
どたーん、と大きな音がした。
私達は一斉に、二階に続く階段の方を見た。
高松はすぐに駆け出した。音は、吉野君のものである。
一番のろまな私がやっと階段付近まで来た時は、高松のどなり声がすでに響きわたっていた。
「馬鹿野郎!こらっ、やめないか!」
「吉野君!」
店主までもが叫んでいる。ようやく私は二階の和室に飛び込んだ。そして見たのは、窓から身を乗り出す吉野君と、それを止める店主と高松の姿であった。
「もういいんです!僕は…生きる希望を失いました!しっ、死なせてくださいっ!」
「待てというのに!早合点なんだよ、吉野!」
「お世話になりましたぁっ、師匠!」
「落ち着いて!」
店主はくるりと首をこちらに向け、あごで私に、この相撲に参加するように指示した。
とうとう、三人の力で吉野君は引き戻った。しかし、この華奢の体のどこに、高松一人にさえ勝る力があったのかと驚かされる。
吉野君はとうとう、泣き出していた。
「馬鹿野郎!」
高松が雷のように叱り飛ばす。
「お前、刑事だろうが!そんなことで人生終わらせていて、犯人を捕えることなんか出来るのか!」
「出来ません!だから僕、刑事やめますぅ!」
「馬鹿野郎!」
あっという間に、高松の拳が吉野君の左頬に滑り込んでいった。どたんばたんと大きな音がして、私は、倒れてきた吉野君を受け止めた形で共に畳に倒れ込み、店主は更に殴ろうとする高松の背後に回って、かろうじて高松の巨体を抑え込んだ。
私はこの混乱の中で、小さな声を聞いていた。最初は、幻聴だと思っていた。
「なに、してるんです?」
声の主はすぐに分かった。琢巳少年である。
「たっ、琢巳君!」
「あのう、父さん、お客様なんですけど」
「す、すまない琢巳、ちょ、ちょっとお待ちいただいて…」
店主が言い終わる前に、そのお客様は襖の陰から姿を見せた。私は一瞬、誰だろう、見たことのある女性だなと考えていた。する間に、
「まあっ!吉野さん!」
女性は吉野君に駆け寄って、ひどく慌てたふうに鞄から白いハンケチを出し、吉野の顔を拭いた。
どうやら、吉野君は口を切って血が出たようだった。
とうとうそこまで来て、私はこの女性を確認した。問題の、市村貴美子である。
「き、貴美子さん…」
吉野君は怯えたようにも、怒ったようにも、愛しいようにも見える目をして市村貴美子を見ていた。
高松も、店主もがっくりと力が抜けたふうに立ちすくんでいる。
「高松さん!なんていうことをなさるの!貴方、仮にも刑事でしょう!暴力をふるうなんてどういう了見ですか!」
「おいおい、ちょっと待てよ、俺は…」
「貴方が殴ったのでないと?この状況は、どう見ても貴方の傷害事件の現場です!…ああ、吉野さん、大変…」
何だか、気が抜けてしまった。笑い出したいような、怒り出してしまいたいような、不思議な気分であった。
「あのう、すいません」
全員が声のした方を見た。
「下で、落ち着いて話をしませんか?」
琢巳少年が一番、この状況を把握している顔をしていた。
「まあ」
市村貴美子はそれだけ言うと、口に手を当てて黙った。
店主が、今までの話を明瞭に説明していた。市村貴美子は、吉野君が自分を疑っていることをこの時始めて知った。
「で、こいつは自殺を試みた。俺は止めた、でもこいつは死ぬと言う。で、そんなことで刑事が勤まるかと言ったら、こいつは勤まらないので辞めるという。だから思わず殴った。悪かったがな、原因はお前にあると俺は思う。」
高松はじっと、市村貴美子を見た。
「私、浮気なんてしてません!」
「じゃあどうして…」
暗い目をした吉野君が、上目づかいに市村貴美子を見た。
全員の視線が、彼女に集まる。
「わ、私は電話のあったことを知らないんです!」
「僕からの電話を取り継がないように頼んでたんですか…?」
「馬鹿なことを言わないで!」
私も少し苦笑した。吉野君は全く、どれもこれもを自分に悪意のあるものとして受け取っている。
「私、話したでしょう?私の両親が今の私の住んでいる部屋を見つけた時に大家さんに、『男からの電話は取り継がないでくれ』って頼んだって!」
「あ」
吉野君は急にぽかんとした顔をした。
「で、でも僕が帰りに誘っても、断わっていたじゃないですかぁ!」
「そ、それは…」
市村貴美子は、急に歯切れが悪くなった。
「ほら!やっぱり僕が…」
「ねえ吉野さん、今日が何の日かご存じ?」
全員、また市村貴美子の顔を見た。
「そ、そんなこと言ってごまかしたって…」
「答えて頂戴」
ぴしゃりと言い放つ。
吉野君は、急におどおどと視線を泳がせた。
「き、貴美子さんの誕生日じゃありませんよ」
「ええ、そうよ。じゃあ誰の誕生日?」
「はあ、なるほど」
声を上げたのは店主である。やんわりとした声のせいで、場の緊張感はがらりと崩れた。
「なに?何でお前が反応するんだ」
「そこまで聞いていれば誰にだって分かるだろう。誕生日なのは、吉野君ですね?」
店主が市村貴美子に顔を向けると、彼女はこくりと頷いた。
「そうでしたかぁ?」
大雑把な声の吉野君に、高松が怒鳴る。
「何でお前が疑問型なんだ!」
「いや、その紙袋から見えているもので、ようやく合点がいきましたよ」
店主が言うと、市村貴美子は顔を真っ赤にして持っていた紙袋をかき抱いた。
「吉野君への贈り物をこしらえていたんでしょう?」
「はい…」
「へぇっ?」
市村貴美子は無言で、その紙袋を吉野君に押し付けた。
「…はあ、…毛糸の服ですぅ」
「お誕生日にそれを、吉野さんにあげたくて、私この一ヵ月の間、すぐに家に戻ってこれを編んでいたの。でも、私不器用なものだから、すぐ失敗してしまって…。それで結局、昨日までかかってしまったの」
「これを、僕のために?」
吉野君の顔が輝いてきた。
「じゃあこの時計は何です?」
私は、一番気掛かりになっていたことを聞いた。
「これも贈り物のひとつでしょう?で、この女性用の方を、貴美子さんがする、と」
店主は淡々と言う。まるで全て知っていたようだ。
「はい。でも、昨日になって、やっと一対に揃ったのに、無くなってしまって…。」
「お前のせいだ、馬鹿が!」
「師匠が盗ってこいって!」
「俺は言っとらん!」
高松はがーっと怒鳴ると、市村貴美子の方を見た。
「さて、だ。じゃあこれは、たしかに市村のものだったんだな。市村が、これを選んだのか?」
「そうです」
「浮気」
店主がぼつりと言った言葉に、市村貴美子はひどく反応した。
「のこと、考えておられましたね?」
「…友人達が、そんな、一ヵ月も放っておいたら、男の人なんてみんな、浮気してしまうなんて言うんです!私…吉野さんのこと、信じていましたけれど、でも原因は私が作っているし、でも、あのう…」
「僕が浮気なんてするはず、ないじゃないですかぁっ!」
急に真横で吉野君が立ち上がりざまに大声を上げたので、私は危うくい椅子から落ちかけた。情けない事に、支えてくれたのは琢巳少年である。
「吉野さん…」
「貴美子さん!」
「ああ、馬鹿らしい。犬も食わないアレとはな!二人して、とっとと帰れ!」
高松は椅子にふんぞりかえると、いつものように体を投げ出した。
「帰る前に、もうひとつ。市村さん、その女性用の時計ですが…」
「え?」
「この男性用の時計、こちらは中古品でしょう?」
「あ、はいそうです。質屋で見かけて、どうしても気になってしまって、吉野さんに似合いそうだったので買ったんです。姿も良かったものですから、私も同じものが欲しくなって、専門のお店で同じものの女性用を作ってもらったんです。」
「はい。」
店主は知っていた答えを聞くようにニコニコとした。なるほどそれで、と私も思う。それで女性用には、見るべき記憶がなかったのか。型は古く見えるが、新品なのである。
若い二人は、何度も何度も礼をいいながら、島中野時計店を後にした。私達はぐったりと、椅子にもたれかかった。
「何だったんだ、あいつらは。果てしなく自分が阿呆に感じる」
高松は似合わず大きな目を半分閉じてぼそりと言った。
「それはよかった。高松さんはそれにいつもは気付いてないのだから」
店主がふふ、と笑って言う。高松は一度ぎろりと店主を睨んだが、少し笑っただけで、何も言わなかった。
「島中野さん、あれは、そういうものですか」
私は店主に、声をかけた。
「新品は、見えないと」
「ああ」
店主は金庫のそばの柱時計あたりに目をやっている。
「新しい時計を、私は久々に手にしました。…そう、何も、ない。忘れていたんですよ、新しい時計の感覚を。…でもね、一瞬思いました…」
ふいに、私に目を向けた。
「あの能力が、消えたんじゃないかと」
「それは、島中野さんにとって、嬉しいのですか?それとも、哀しい?」
店主は、笑って視線を落しただけだった。
奥から、琢巳少年が歩いて来た。
「あのう、このお寿司、食べていいんですか?」
「あ」
私は全員の顔を見渡した。
四人いた。保険は効果がなかったようだ。
5
寿司を大皿に盛って、四人でつついていると、不意に疑問が浮かんだ。
「高松さんは、時計はお好きなんですか?」
「何を初対面のようなことを」
高松は海老の尾を口から出したまま、もごもごと言った。
「どうなんです?」
「興味ないな。元々、腕にしているだけでもおっくうなんだ。俺はしたくないがな、時間で動かなけりゃならん時もあるだろう。」
「勝手気ままに単独捜査している刑事にしては、神妙な事をいう」
店主があげ足を取る。
「馬鹿を言うな。俺ほど時間に厳しい男は警視庁におらんぞ!」
「あなたの場合は他人に厳しいのだろうに。自分は人を二時間待たせようが平気じゃないか」
ふん、といって、高松はまた皿に手をのばした。
「じゃあ、どうしてこの時計店に入ったんです?」
店主と高松の視線が、急に私に集まった。私はおどおどと口をきいた。
「だ、だってそうでしょう。ここは表通りにあるわけではないし、そばに警視庁があるわけでも、お住まいの寮があるわけでもない。」
「ふうん、そうか。別にたいした話じゃないぞ」
「そうかな、僕はたいそう面白い話だと思いますけど」
琢巳少年は河童巻に醤油をつけながら、高松を見た。
「まあ、いつ口開いてもこましゃくれた餓鬼だな、琢巳」
「僕は事実を述べたまでです」
私はおろおろしたが、高松と琢巳少年はにやりと笑った。仲が悪いわけではない。初めは驚いたが、これがこの二人のじゃれあいのようである。
「まあ、寿司のつまみにはなる話かもわかりませんよ」
店主は、ふいに話しはじめた。
冬の事であった。
高松は、自分の靴を見下ろして、ふんと言った。
急いで出て来たので、革靴を通して、雪の冷たさが素足に触れて来ている。
電信柱の陰から顔を出して、見上げる。
小さな一軒家の物干し台が見える。窓に、人影がくらり、と揺れる。
「師匠~」
高松は鋭く振り向いて、近づいてきた吉野君の額を拳でごつん、と殴った。
「あ痛!なにする…!」
「声を出すんじゃねえ」
二人は、同時にその物干し台を見上げた。
今、高松は、一つの大きな事件を抱えていた。殺人事件である。
それも、一家族のほとんどを殺した、大量殺人であった。
新聞も、ラジオも幾度も繰り返してその事件を報じていた。すでに、事件が起こってから三箇月が過ぎており、世論は警視庁を能無しと評価しはじめている。
「でも師匠、本当ですかねぇ~」
声をひそめて、吉野君が言った。
「八割、ガセだろうな」
高松の低い声が、白い息と共に吐き出される。
「ですよねぇ~」
事件は、こんな顛末である。
曇りの日だった。
工場に働く家族の、社宅のような住宅地で、ある主婦が、昼を回って亭主も子供もいなくなり、いつものように隣家の橋本家に邪魔をしに行った。
まず、庭の方から回って声をかけた。返事は無かった。雨戸まで、閉まったままだった。
それからその主婦は、玄関に回った。こちらでも返事はなく、鍵が掛かっていた。この辺りの家では、あまり鍵など掛けないので、主婦はただならない様子を感じた。
どこか開いているところは無いかと、真剣に探し始めた。すると玄関の左手の、勝手口のそばの窓が細く開いているのに気がついた。
主婦は、そっと窓に近付いて行く。暗い窓の隙間が、目の前に迫って来た。左目を近付け、中を覗く。
暗闇に慣れない視覚より先にそれに気付いたのは、嗅覚だった。
ぶうんと、重い臭いが鼻を突いた。ぎすぎすとした、気分の悪い臭いだ。そのうち、目が慣れて来ると、主婦が覗いている窓を通した外の明りが、真っ暗な家の中をうっすらと照らしているのが見え、それは物体を象っていた。
足である。仰向けに寝た人間の足だ。その足は、どす黒い液体を巻きつかせている。
主婦は、ひいっと声を出して窓から離れて尻もちをついた。腰が抜けたようになるのをこらえて近所で唯一電話のある町内会長の家に駆けこみ、工場の自分の亭主に電話をした。亭主はすぐに電話に出、今日は橋本家の主人、橋本兵衛は出勤していないと言った。主婦は、町内会長と電話の向こうの亭主に分かるように橋本家の異変を告げた。町内会長の妻が駐在署に走り、亭主はすぐに戻ると言って電話を切った。町内会長と主婦が橋本家の前に着くと、自転車で駐在がやってきた所だった。三人は、もう一度家の中に声をかけ、返事がないのを確認すると、玄関の引き戸を丸ごと外して家に入った。
臭いは先に主婦が嗅いだよりも、ぐっと気分が悪くなるほどに増した。
駐在が、うわあと声を上げて転倒しそうになった。玄関を上がったすぐのところに、橋本家の長女、康子が倒れているのにつまずいたのだ。
町内会長は急いで抱き起こしたが、長女は鼻と口から黒い血を流して白目をむいていた。息はすでに無かった。頭が、ぐっしょりと血で濡れている。
三人は更に中に入って行った。玄関から入ってまっすぐ廊下が続いており、玄関の左手は襖がある。襖の奥は炊事場があるはずであった。隣家の主婦が襖に手をかけたとき、町内会長が、おいと声をかけた。
廊下は、右手にガラス窓が敷かれ、そのまま縁側になっている。左手に障子がいくつも続き、手前に居間、奥に橋本夫婦の寝室がある。廊下の突き当たりには厠と風呂場があり、二階への階段がある。
廊下の先に、何かがあった。障子の間から廊下にはみ出したように見える。部屋は夫婦の寝室のようだ。三人は廊下を進んだ。右手の窓は雨戸が全て閉まっているので、ほんのわずかしか廊下に光を与えない。薄暗いが、そのものに近付いていく過程で、それが何なのか、誰もが気付いていた。
手である。掌は伏せられている。駐在が近付き、腕の分だけ開いた障子の前に立った。主婦は、何かに急かされたように雨戸を開け始めた。
がらりと、曇りの外の光が家の中に差し込んだ。町内会長が、うう、と呻いた。
障子の隙間から見えたのは、寝巻姿の橋本兵衛である。駐在が障子を大きく開けると町内会長は、今度は救け起こそうとはしなかった。後頭部が割られているのがすぐに知れたからである。目を見開いたまま、顔面を畳にすり当てている。黒い血が兵衛の体の周りに溜まっていた。室内には布団が敷かれていて、一つは乱れ、一つは誰も寝た形跡は無かった。
ミツさぁん、と隣家の主婦が堪らずに声を上げた。兵衛の妻の名である。主婦は隣の居間の障子を開けた。そして、うぐ、と言って胃の中の物を吐き出した。
居間は玄関左の炊事場と続いており、その間の障子は開け放たれていた。居間には、料理が沢山置かれた食卓があり、その周囲に次女篤子と長男修一、少し離れた畳の上に、離れに住む兵衛の母親タキが倒れていた。皆、頭を割られているのは同一であった。
炊事場の床は板張りで、そこにも誰か倒れていた。仰向けに横たわった橋本ミツである。ミツの足元には、窓からの光が少しだけ差し込んでいる。最初に隣家の主婦が見たものはこれであるらしかった。
町内会長と駐在が、後じさるように襖から玄関先に出た時、息を切らせて隣家の亭主がやってきた。亭主は、幽霊の様に青い顔をした二人と、せき込みながら胃の物を吐いている妻と、白目をむいた橋本家の長女に気がついた。そして、大体を了解した。亭主は妻に駆け寄って、救け起こして家の外に出すと、家をどこも見ましたか、と言った。町内会長は二階はまだだ、と言い、廊下の端の階段に目を向けた。
階段がぎしりと言うのにも胆を冷やしながら、三人は二階へ上がった。こちらは雨戸は閉まっておらず、廊下は明るかった。
部屋は三つ続いており、駐在は手前の部屋の障子に手を掛けた。ここは長男の部屋であり、勉強机の上が少し乱れていた。誰もいない。
次の部屋は、長女と次女の部屋である。町内会長がゆっくりと障子を開けた。三人が、はっと息を飲む。まだ学校に上がったばかりの三男禅吉が、二つの布団にまたがるように仰向けに横たわり、口から沢山の血を流していた。もう、誰も部屋に入ることすらしなかった。
一番奥の部屋、ここは次男と三男の部屋である。駐在が、大きく息を吐いてから、するりと障子を開けた。綺麗に片付いている。ここにも、誰もいなかった。
三人が、汗をぐっしょりとかいてこの部屋に背を向けた時である。
がたり。
どこかで、微かだがはっきりと、物音がした。
三人は異常な緊張感を感じた。町内会長が、この部屋からしたろう、と小さく言った。この部屋ですねと、隣家の亭主も言った。駐在は、腰から警棒を抜くと、部屋に足を踏み入れた。
がたり。
三人の視線が、同一の場所に向けられた。押入である。
誰も口をきかず、ただ黙ってお互いを見た。急に、駐在は奮い立つように動いて、押入をからりと開けた。
押入の下の段の、布団の上に足が見えた。力がこもりすぎて、もう少しも動けないように突っ張っている。駐在はかがんで、中を覗き込んだ。
少年が座っていた。顔と、寝巻に黒いものが飛んでいる。歯がかちかちと小さく音を立てていた。橋本家の次男、辰次であった。
たっちゃん、と隣家の亭主が声をかけた。たっちゃん、どうしたんだ、何が、あった。
辰次は濁った目で隣家の亭主を見ると、うう、と言って白目をむいて卒倒した。
この一家で生き残ったのは、辰次だけであった。
「ああ、ありましたねえそんな事件」
がりをつまみながら、私は間の抜けた声を上げた。
「あれは解決したのでしたね。それを、高松さんが?」
「そうだとも。それにしたって『ありましたねそんな事件』、かい?あの事件は俺の刑事人生の中でも一番忘れられない事件だがなあ!人の噂も四十九日…」
「七十五日ですよ。誰かの供養じゃないんだから」
琢巳少年がふふん、という顔でつぶやく。
「すまん、島中野。一人息子を亡くすことになりそうだが」
「まあまあ、あなたも大人なんだから。…さて、そんな事件に、この高松さんと吉野君は、関係することになったんです。」
もちろん、警視庁は大量の警官を割いてこの事件に当たらせた。捜査一課は、その中心として休みなく働くことを要求された。もちろん高松とて、その例外ではない。暮も押し迫ってきたというのに、毎日警視庁に出勤させられることは、この上ない苦痛であった。
当時、ちょうど高松は課長と犬猿の仲になりつつあった時期であった。原因は、高松が法律ぎりぎりで行った捜査によって、時効間近の犯人を捕えるという大手柄をやってのけたからである。勝手な捜査でそれまでも有名であった高松が、あろうことか捜査一課で英雄化しつつあり、課長がそれを快く思わなかったのである。この課長というのも、そう大きな器ではないのだが。
高松はそのせいで、その頃、課長命令で電話番をさせられていたのである。普及していないものであり、掛かってくるのは間違い電話くらいのものである。他の刑事たちが皆出払うなか、高松はするめをかじりながら、ラジオを聴いていた。
「師匠~」
高松は反応もしなかった。吉野君である。不幸な事に、彼は高松に振り回されて、一緒に電話番をさせられてしまっていた。
「お茶、入りましたぁ~」
「酒にしろって言ったろうが」
「無茶言わないでくださいよう、警察官が昼間からお酒飲めるわけがないじゃないですかぁ!」
「いいじゃねえか、誰がいるんだよ他に」
汚く散らかった部屋は、足を組んで反り返って座っている高松と吉野君と、ラジオの音しかなかった。
煙草のやにが、部屋中にこびりついて、くすんだような印象を与える。
「だあーああ、もう俺、帰るぞ」
高松は殴るようにラジオを止めると、がたんと席を立った。
「師匠そんなぁ~」
「お前に任せた!」
「無責任な事、言わないでくださいよう~」
じりりりり。
電話が鳴った。二人の視線が電話に向く。
高松はこれ幸いと廊下に出ようとしたが、吉野君が腕をぐいと掴んで部屋に戻す。
「離せ!こらっ」
「はい、捜査一課ですぅ。…はい?ええ、…え?」
高松は、吉野君の顔色の違うのを見て、受話器を奪い取った。
「誰だ!」
『情報を、教える。』
高松は、吉野君をうかがい見た。吉野君は、首をかしげた。
声は、ない。息だけで話している。年令も、性別も分からない。
「何の情報だ?」
『殺しの、犯人を教える』
「どの事件だ、それを聞いている」
『一家、ごろし』
高松は吉野君に目配せした。吉野君が手帳を持つ。
「犯人を知っているのか?」
『住所を、言う。』
高松は犯人が言うのを復唱する。吉野君は、それを書き記した。
「おい、あんた誰だ?」
ぶつり。
電話は切れてしまった。高松はすぐに電話をかけ直した。
「交換手?警視庁だ!今、この番号に掛かってきた電話はどこからだ?…ああ、番号でいい」
高松は、また復唱した。吉野君はその番号を手帳に書く。
高松は受話器を置くと、吉野君に向き直った。
「お前、その番号がどこからのものか調べて来い。俺はその住所に直行する。お前も後で来い」
「ああっ!あのでも!」
「何だ!」
「電話番は…?」
「お前がやりたいんなら、俺は止めん。」
吉野君は一瞬、高松をみつめて、にっと笑うと部屋を出て行った。
高松も、黒いコートをつかむと、派手な音をたてて部屋を出た。
その、住所の家の下にいる。
ガセだろうと思いながらも、その物干し台を見上げないわけにはいかなかった。
また、人影が窓に映る。
「ここ、そのサワノジュンイチって男の家ですか?」
「ああ」
先の電話が示した住所と氏名は、確かに存在していた。
「電話、どこからだったんだ?」
高松は目線を上に向けたまま、小さく言った。
「それが、この住所の近くなんですぅ」
「なに?」
「ほら、師匠、その先の突き当たりに、大きな病院があるでしょう~」
目を向けると、白い頑丈そうな建物が建っている。総合病院であるらしかった。
「あそこの、待合室のそばの電話みたいですねぇ」
「ふうん」
「驚くのが、あそこは橋本家の唯一の生き残りの、次男が入院している病院なんですよう」
高松は、鋭く吉野君を振り返った。
「吉野」
高松が低く言う。
「俺はあまり、このヤマの捜査状況を知らないんだ」
「ああ、いつも寝てるから」
高松がまた、吉野君の額を殴った。
「いだいっ」
「俺が課長に睨まれてるからに決まっているだろうが。お前、多少は知ってるだろう。」
「ええ、同期の里島君は、課長のお気に入りですからねえ、いろいろ教えてもらってますよぅ。」
「今、どうなってる?」
「捜査は、難航しています」
「そんなことなら、お前に聞かなくても分かってる!何でだ?」
「ほとんど犯人の手がかりらしいものがないんですぅ。指紋も、家族のものと発見者のものと、それ以外は前科があって身元の知れるようなものは無かったしぃ、証拠品も何もなかったそうで」
「死亡推定時刻は?」
「発見された前日の午後九時から午後十一時までの間です。一家は、ほぼ同じ時刻に殺されたと見られていますねえー」
「凶器は?」
「それが見つかってないんですよう。傷の具合では、全員が同じ、不定型の鈍器で殴られたというのは分かっているんですけど~」
「その、あすこの病院にいる、唯一の生き残りは、何て証言してるんだ?」
「いまだ証言してないようですよ。そりゃ目の前で家族が殺されたら、一生しゃべれなくなっても不思議じゃないでしょうー。」
「やっぱり、そうなのか」
「はいぃ?」
「その次男は、目の前で家族が殺されるのを見たんだろうか?」
「まあそうでしょうねえー。顔や衣服に血が飛んでたって話ですよう。」
「そうなのか?誰の血だったんだ?」
「ええと」
吉野君は手帳をめくって、
「ああ、長女ですぅ。あの、玄関に倒れてた」
「ふうん」
「そうそう、次男は、長女ととびきり仲が良かったそうです~。仲が良かった兄弟の返り血なんか浴びたら、そりゃしゃべれなくもなりますよぅ~」
物干し台で音がした。
二人はすっと黙り、塀に身を寄せて、頭上をうかがった。
三十後半くらいの女性が、洗濯かごを抱えて物干し台へ出て来た。
すると今度は、玄関が開く音がする。誰か出て来たようだ。
「いってらっしゃい」
物干し台から、女性が言った。
「ああ」
今度は玄関から、男の声で返事が聞こえた。
「遅くなるの?」
「いや。そうでもないだろう」
「そう。じゃあ夕食作っておくわ」
男の足音が近付いてくる。
高松と吉野君は、ほとんど同時に周囲をきょろきょろと見回し始めた。
男が、姿を表わした。痩せた、これも三十後半の男である。背はそう大きくもない。作業着のようなものを着ている。
高松と目が合った。
「あのう」
声を発したのは吉野君である。
「すいませんー、駅はどちらでしょう?」
「駅?」
「申し訳無い、道に迷ってしまって。」
「ははあ、そうですか。この辺りは似たような家が並びますからなあ」
「全くでして」
男は笑顔を見せた。優しげな、いい笑みだ。
「ちょうど私も駅に行きます。送ってさしあげましょう。ここから一番近い駅といったら、新宿駅ですが…?」
「僕らも、そっちから来たんですぅ」
高松は、頭上から視線を感じた。
「気をつけて!」
女性の声を聞いて、男は振り仰いで手を上げた。
「妻です」
男は笑った。
「新宿駅」
私は店主の顔を見ながら言った。
「この辺りじゃないですか」
「そうですよ」
「じゃあ、病院とは、あそこの国立病院?」
「ええ。」
店主は含み笑いのまま、頷いた。
「そろそろ、島中野登場ってとこだ」
高松までが笑って言う。
「そこで初めて、私はこの荒くれ刑事と出会うのですよ」
男は、沢野純一と名乗った。
「申し訳ないが、一軒店に寄りたいのですが、お急ぎですか?」
高松と吉野君はくちぐちにいいえ、ちっともと告げた。
場所は伊勢丹のそばである。裏通りだが、駅への遠回りというほどではない道だった。
黒い大理石の壁が見える。
「ああ、あそこだ。」
沢野は視線をその店に向けている。高松は看板を見た。「島中野時計店」。ぐにゃりとした文字がそう象っていた。高松は声を出さずに、しまなかの、と口を動かした。
店の前に立つと、左手にショウウィンドウが見える。銀色のベルトの、洒落た時計が男性用と女性用の一対で置かれている。沢野は躊躇なく扉を押した。
「いらっしゃいませ」
男の声がある。高松と吉野君も店に入っていった。店内は、古道具の匂いに満ちている。薄暗い店内に目が慣れてくると、四方の壁一杯に、腕時計がずらりと並んでいるのに気がついた。
「お手紙いただきました、沢野ですが」
「ああ、どうも」
奥にいる店主が立ち上がった。高松は鋭く目を向けて、その店主を観察した。
三十すぎの男である。少し鼻の大きな、彫りの深い顔をしている。生なりのワイシャツを着て、仕立ての良さそうな茶のズボンをはいている。少しのばしぎみの髪が、耳に掛かっている。
「申し訳ありませんでした。そんなに特殊な時計だとは思わなくて」
「いいえ。私もなかなかの珍品を手に出来て、楽しい思いをしましたので」
店主はくわえていた煙草を灰皿に置いて、店の奥に下がった。
戻ってきた店主の手には、細長い箱がのせられている。店主はこちらに歩み寄りながら言った。
「三箇月も掛かってしまって、大変お待たせしてしまいましたが。」
周囲の時計を見ている振りをしていた高松が、不意に振り返る。
三箇月。
「い、いえ。こちらこそ、そんな外国から取り寄せていただくなんていう苦労を、おかけしてしまった」
「どうぞ。」
店主はにこやかに笑いながら、箱を開けた。
高松は箱を覗き込んで、ほう、と言った。
顔があるのかと一瞬思ったほどだ。文字盤のなかに、さらに円が二つある。各々に長針と短針があり、もちろん文字盤の中心からも、長針と短針がのびている。気付くと、龍頭が三つある。
「これは何だ?」
店主は、初めて高松に目を向けた。
「珍しい腕時計ですよ。沢野さんの…」
「叔父貴です」
「そう、叔父さんから頂いたものだそうです。あのう、」
店主は、高松を見て、意見を求めるように沢野を見た。
「ああ、この方たちは道に迷われたそうで、新宿駅に向かう途中なんです。」
「はあ、そうでしたか」
「で、どう珍しいんだ?」
吉野君もやってきて、ああー、なんですかこりゃと声を上げた。
「これは亜米里加の個性的な時計会社で、マアシズというところの時計ですがね、三つの場所の時間が表示出来るというものなのですよ。」
見れば、確かに文字盤に組み込まれた三つの時計は、ばらばらの時間を指している。
「それって何の為にですぅ~?」
「例えば海外に行かれたりするかたが、一番真ん中の時計はその国の時刻、右は故郷の日本の時刻、左は取引先の時刻、などというように時計を合わせておくわけです。もともとが亜米里加の時計ですしね、亜米里加という国は、国土の最西端と最東端で、ずいぶんと時間が違うそうですから。」
「ははあー、なるほど。」
「そのために、普通の時計と同じ大きさで三つの時計を組み込むという、大層細かな部品で作られているのですよ。」
「それの龍頭の一つを、どこかで壊してしまって。」
沢野が言った。少し、青ざめて見える。
「それで亜米里加から部品を取り寄せたのか?」
「ええ。」
店主は事も無げに言ってのけた。
「それで三箇月も?」
「はい。思いのほか掛かってしまいました。沢野さんにはご迷惑をお掛けしてしまって。」
沢野はただ首を振った。沢野の雰囲気が少し変わってきている。
「で?沢野さんあんた、どうしてこの時計を壊したんだ?」
高松がゆっくりと言う。口調はすでに、刑事に戻っている。
「な、いや、別に…」
「そんなことは、あなたが聞くことじゃあない」
店主が、高松に向かってぴしゃりと言った。高松はまっすぐに店主を見た。少し高松より背の丈の小さい店主は、口をぐいと結んで高松を見上げている。
「…そうだな」
そう言って、高松の方が先に視線を反らした。
代金を支払う為に、沢野は店主と店の隅に立った。
釣銭を、店主が手渡した時である。
「随分と汚れていました。…平気ですか?」
店主の言葉に、沢野は異常な程の反応をした。びくり、と体を硬くして、目を見開いている。口は少しだけ開いて、その唇が震えた。
高松はその言葉と、その反応を見逃さなかった。吉野君の制止を振り切って、つかつかと二人に歩み寄った。
「その汚れとは、あの一家の血だろう」
沢野には、その言葉で充分だった。
高松の体を突き飛ばして、出口へ走った。吉野君は機敏に反応すると、逃げ去る沢野を追った。
「待ちなさい!」
一瞬、吉野君が立ち止まる。店主が発した声は、威厳に満ちていた。
「いい!吉野、追え!」
吉野君は、高松の声ではじかれたように外へ飛び出して行った。高松も体制を立て直して、駆け出そうとする。
「待ちなさい。」
高松は、とうとう立ち止まった。振り返る。店主は、真直ぐ高松の目を見ていた。
「何だ。」
「沢野さんは、違いますよ」
高松は眉間に皺を寄せて、店主を睨んだ。
「あんた、何を知ってる?」
「何も。でも沢野さんじゃあない、ということだけは知っていますよ」
「何が、沢野じゃないんだ?」
店主は黙った。その沈黙が、はっきりと高松に告げていた。
「…沢野に、聞いたのか」
「いいえ。沢野さんとはさして親しくはありません。年に一二度利用して頂くくらいのお客様です」
「じゃあ、どうして分かる」
驚いたことに、店主は笑った。
「さあ。…しかしこれは真実ですから。」
「いいかげんにしろ」
高松が、一段声を低くした。
「目的は何だ?沢野とはどういう関係だ」
「それはさっき申し上げましたよ、刑事さん」
ひくり、と高松の眉が動く。
「刑事さんでしょう?それは誰でも分かりますがね。」
「あんた、連行されるかもわからんぞ」
店主は笑っただけだった。
「…ようし、分かった。じゃあ、あんたの知ってる情報を俺にくれ。そうすれば、俺はあんたのことを上司には報告しない」
「別に報告されても結構ですがね。…沢野さんの件は心掛かりだ。いいでしょう、お話しします。しかし、そうはっきりした事は申せませんよ」
高松は腕組みし、足をぐっと開いて店主の正面に立った。ここで、挽回したいと高松は思っている。こんなに他人の調子に持って行かれるのは初めてだった。
「始めてもらおうか」
店主は、店の中央の椅子をすすめた。二人は、向かい合って座る。
「…私に分かるのは…沢野さんは、すでに一家が殺されてしまってからその家に行ったこと。家には、…なにか、小さな窓から忍び込んだこと。広い…居間のような部屋を割合に荒してしまったこと。でも、その部屋より向こうには行かなかったこと。…屍体は、一体しか触っていないこと。時計は、太い柱にひっかけて壊してしまったようですな。そして、同じ窓から逃げ出していったこと…そんなところでしょうか。」
高松はあごをなでた。新聞の報道では、炊事場の窓が開いていたことは伏せてある。この男が、なぜそこまで知っているのか、高松は疑惑を深めた。この男は、どう事件と関係しているのか。
「あんた、一体…」
「ちょっと!」
急に、店の奥から声がした。女の声である。
「失礼」
店主は立ち上がって、奥へ続く廊下の前に立った。
「どうした?」
「ああ、あなたいたの?ちょっと、買い物したのが重いの!助けてくださいな!」
高松は拍子抜けして背もたれに身をあずけた。
「おい、慶子、今お客様なんだよ」
「あら」
買い物かごを両手で重そうに提げた女性が入って来た。廊下の奥には、店の裏の勝手口があるようだ。
「いらっしゃいませ。…ふーん、時計がお好きなんですか?ふふ、ちょっとそういうふうには見えませんのね」
髪を後ろで一本の三つ編みにした、三十くらいの女性である。高松と同年ほどに見えた。割合、美人であった。
「失礼だろう!」
「まー、本当。失礼いたしましたー。あはははっ」
高松は、苦笑いした。なんだか、張り詰めていた神経を、ちょんと鋏で切られてしまったようだった。店主も同様らしく、頭をかいて照れ笑いしている。
「全く、あははじゃないだろうに!…本当に、失礼しました…」
「あら、あなたが謝るのはお門違いよ」
「おい、お前はっ!」
「はい、じゃあどうぞごゆっくり。」
からからと笑いながら、女性は買い物かごを持って奥にまた戻って行った。
「…はあ、申し訳無いです、今のは、私の愚妻でして…」
「ふふん、愉快な奥方だな」
いや、まあ、はいなどと店主は言うと、煙草に火をつけて決まり悪そうに高松の向かいの椅子に再び腰掛けた。
「…うーん、まあ、いい。なんだか気が削がれたしな。とりあえず、名前とここの住所を聞いておこうか。」
高松は手帳を胸から出した。
「島中野、紋十郎と言います。」
家庭環境を聞くと、妻慶子と、息子の琢巳との三人暮らしだという。高松は住所を手帳に書き込んで、また店主を見た。
「ええと、ああ、この店には電話があるんだな。丁度良い。近いうちにまた連絡するかもしれん、あまり店を空けないように。」
「分かりました。…沢野さんの事、よろしくお願いします」
高松は店を出た。そしてすぐに振り返る。一瞬、今まで自分はたぬきにでも化かされていて、今振り返ったらこの店が無くなっているのではないかと思ったのだ。
「その時俺は、この男は絶対に、この事件の関係者だと思ったよ」
高松は琢巳少年が奥から運んできた番茶を一口すすって、息を吐きながらそう言った。
「時計から、何かわかるなんてことを、どこのどいつが思いつくんだ」
「全くです。」
「お前が言うな、島中野!」
私は、声を上げて笑った。
「でもあの頃は…奥方、元気だったがなぁ…」
高松が、ぼそりと言う。
私は、思わず店主を覗き見た。店主は、何かなつかしいものを見るような目をしていた。
「…まあ、それからすぐに、沢野さんは逮捕されました…」
高松は、自分の机について、眠そうな顔で何か考えこんでいた。
「師匠~!」
高松の隣の席に、長身の男がするりと座り込んだ。吉野君である。
「僕の昨日の大捕り物、師匠にも見せたかったですぅ~!」
えい、やー!などと、吉野君は柔道の型をやってみせた。
「うーん、そうやって投げ飛ばしたのか?沢野を。」
「いえ、走ったら追いついたので、ただしがみついただけですけど。」
高松は拳をつくってすかさず吉野君の額に打ち込んだ。
「うがっ」
「それのどこが大捕り物なんだ!…それで?今、沢野はどうしてる?」
「いてて…え、ええ取り調べ室に。課長自ら落すそうですよ」
けっ、と高松は顔を伏せた。
「あいつに落せるホシなんていやしねぇよ。小学生の万引きだって落せるか」
「あーっ危険ですよ、一応ここは、署内ですから!」
高松が、急に立ち上がって、入り口の方へつかつかと寄って行った。
入ってこようとした男の、首を腕でぐいと閉め上げる。
「うぐっ、何するんすか、高松さん!」
「里島、ちょっと顔かせ」
「え、えぇ?」
ずるずると引きづるように、高松は里島を廊下へ連れ出して行く。慌てたふうに、吉野君も後を追う。
「聞きたいことがあるんだよ」
「へ、へえ、なんです?ち、ちょっと苦しいすよ…」
「一家殺しの件」
「いや、それはちょっと勘弁してください!俺、課長に怒られ…」
「だから俺と、お前と、吉野の、三人の秘密にしようや。なあ。」
「えっあの…」
その時ようやく、高松は里島の首を離した。
「確かめたいことがあるんだ。まず、橋本家で唯一開いていた窓、炊事場の方のな。あそこに、侵入者の形跡はあったか?」
「…まいったなぁ…、ええ、ありましたよ。靴のあとが、窓の縁に残っていました。」
「靴の向きは外から入ったものと中から出たものの二種類で同一の足跡で、付いていた土は、窓の下のものと一致したのか?」
「なんだ、知ってるんじゃないすか、高松さん。」
「ふうん。じゃあ次だ。その家の居間、な?何者かが血を踏んだ跡は残っていたのか?」
「あれ、やっぱり知ってるんすね。ええ、居間と炊事場からは、大人の男性の足跡がずいぶんと血を踏んで残ってるんすよ。まあ十中八九、昨日吉野が捕まえた男のもので間違いないでしょうね。」
高松は顎に手を当てた。
「それと…ああ、炊事場にあった屍体、あいつは動かされた形跡があったか?」
「えーっ、何すか、やっぱり協力者でもいるんすね!ええ、そうなんすよ。これは本当に極秘の情報す。発見者の誰もが、橋本ミツには触っていないというのに、明らかに少し引きづられた跡がありました。しかし、指紋のようなしっかりした証拠は、まだ出ていないんですけれど」
「師匠、それ…」
「それとなあ、居間か炊事場か、どちらかの柱に、派手なひっかき傷が無かったか?」
「ひっかき傷?」
里島は少し考えこんで、
「ええと、ああ、はいはい、そういえばありましたよ。炊事場の方の太い柱すね。確か、写真もありましたよ…えー、鑑識の注意書きに『真新しい傷』ってあったんで覚えてるんすけど。横一本で、しゃーって感じで。…本当に、どうしてそんなこと知ってるんすか?」
「いや、いいんだ。忘れろ。忘れないと、課長に睨まれることになるぜ」
顔を歪ませる里島の肩を、高松はぽんぽんと叩いて、部屋へ戻る。
「師匠~、どうしてあんなこと知ってたんですかぁ~?」
「出かけるぞ」
席から、コートを引ったくった時である。
「何処へ行くんだね」
吉野君はばたばたとあわてて、敬礼した。
「いやっこれは、青田課長!」
捜査一課の課長、青田は、鬼の首を取ったような顔で口の端を歪ませた。髪を神経質なまでに整えた、四十すぎの痩せた男である。
「君には聞いておらん。答えるんだ、高松」
高松は、きろりと下から青田を睨んだ。
「散歩です」
大きい高松の目が、貧相な体格の青田を射殺すように見たままである。青田は、頬を引きつらせ、少し怯えたような顔をした。
「なっ、散歩だと?お前には電話番の仕事を与えてあるはずだぞ!…いいか?昨日の電話にしろ、お前は上司への連絡を怠っておる!今回は犯人を捕えられたから良かったものの、それでなければ始末書では済まされんのだぞ!」
「その方があんたには好都合でしたでしょうに」
高松がぼつりと言う。
「何?」
「それにあの沢野、本当に犯人なんですかね?課長、取り調べされたそうですが?」
「まだ黙秘しとるよ。しかしまあ、時間の問題だがね。明日には自供に持ち込めるだろう」
「賭けますか?俺ァ落ちない方に五万円」
今度は青田が、ぐいと高松を睨みつけた。高松は蚊にくわれたほどにも感じていないようである。
「まぁ、どちらにしろ、俺じゃあ電話番はつとまらんでしょう。昨日のこともありますしね。…行くぞ、吉野」
「あ、は、はい…」
「吉野君」
吉野君が振り向くと、青田もその顔を見るように振り返った。
「あいつについて回るのは、君の為にならんよ。君も、自分の身の振り方を考えたがいい」
吉野君は、深く一礼すると、廊下を高松の後を追った。
練馬区のはずれである。周囲は木々が多く、開拓されていない印象を残す。
少し行ったところに、煙突が見える。小規模の工場があるのだ。
まだ舗装されていない砂利道を、高松と吉野君は歩いていた。
「師匠~そういえばどうして、あの時計屋の事を言わないでいたんですぅ~?」
「別に」
「あの時計屋、絶対怪しいですようー。ひっぱっちゃえば、案外簡単に何か吐くかもしれませんよぅ」
「着いたぞ。あそこだろ?」
高松の指差す方向に、家が四五軒建っていた。
そのうちの一軒だけが異様に見えるのは、玄関の前に、綱と立ち入り禁止の札がかかっているからである。
高松は、その家の前に立った。ブリキの郵便受けには、消えかかった文字で「橋本」と書かれている。玄関の左手を仰ぎ見ると、うっそうとした林があり、家にのしかかろうとするようにしている。玄関の左横には、薄汚れた壁がしばらく続き、大人一人がやっとくぐれるくらいの窓と、勝手口の扉がある。
玄関の右手はすぐに折れ、奥に向かって細い庭のようになっている。いくつかの盆栽と、手入れのされていない飛び石が続いている。高松は、立ち入り禁止の綱をまたぐと、その細い庭に足を踏みいれた。
雨戸が閉まっているが、ここは縁側になっているようである。高松が、雨戸を仰ぎ見ていると、
「あのう」
と声がした。振り返ると、自転車に乗った若い警官が、こちらを見ていた。
「さっき、駐在署に伝言置いていったのは、そちらさんで?」
「ああ。警視庁捜査一課の高松だ」
「吉野ですぅ」
二人は、手帳を見せた。
「あっ、どうもご苦労様です。いや、久しぶりの本庁さんだな。えー、私、西大泉駐在署の時田巡査であります」
真面目そうに時田は敬礼したが、どうもそれを面白がっているようなそぶりである。
「で?今日はどうされました?」
「もう一度、現場が見たくてね」
もう一度とは言ったが、高松と吉野君は現場に初めてやってきた。課長が、同行を許さなかったのである。
「そうですかー。いや、ご苦労様です。」
「お前さんは、発見者の一人かい?」
「ええ。最初に現場に入ったのは、私と、ほらその、右の家、山下さんの奥さんと、町内会長の林さんです。いやあ、もうあんな目に会うのは二度とごめんですよ。今でも、たまに夢で見ては、飛び起きたりしますよ」
さあ、どうぞと時田は玄関の鍵を開けた。三人が、中に入る。
「現状保護をされているのか?」
高松は、足元の黒い血溜まりを凝視しながら言った。
「ええ。青田一課長のご判断で。解決するまではこのままにしろと。」
高松は苦笑した。青田はきっと、すぐに解決すると思っていたのに違いない。
「師匠、課長、忘れちゃってるんじゃないですかぁ?ここがそのままなこと。」
「有り得るな」
玄関を上がると、正面に廊下が続いている。雨戸は開けずに、時田は電気をつけた。
たまらない臭いが漂うこの家の中は、ぴたりと三箇月前のまま、時が止まっている。遺体はすでにないものの、その形跡は、血で示されている。高松は橋本夫妻の寝室を見、戻って居間を見たりした。
「師匠~」
炊事場にいる吉野君の方へ高松は近付いた。
「何だ」
「これ、師匠が里島君に聞いていた傷跡じゃないですかぁ~?」
炊事場と居間の間に位置する太い柱に、見るとすうっと一本、傷が付いている。柱が黒いぶん、傷が木を削って黄色い肌を見せているので、よく目立つ。
「吉野、沢野の身長、どれくらいだか分かるか?」
「身長ですかぁ~?えー細かいことは…」
「大体でいい」
「ええと、僕よりちょっと小さいから…あ、あの巡査さんくらいですよ」
高松は、居間で、血の跡を見ていた時田を呼び止めた。
「ちょっと、ここに立ってくれ」
「ここ、ですか?」
時田が、柱の横に立った。傷は、右から左へ流れている。
「時計は普通、左手にするよな?」
「まあそうですねえー」
高松は、時田の肩を掴んで、柱に左腕が当たるように立たせ直す。柱の傷は、時田の手首の、少し上にあった。
「間違いないな」
「なんです?師匠~」
「沢野は、龍頭を壊したって言っていたろう。やつは、ここに龍頭を擦って、壊したんだよ」
「へっ!」
「取り寄せるのに三箇月もかかった部品だ、あの時計屋にある沢野の時計、あれとこの傷を照合すれば、独特の同じ塗料か何か、合致するものが出るに違いない」
「し、師匠!」
「沢野が現状にいたっていう物的証拠になるぜ。奴がどんなに黙秘したってな」
「は、はい!」
「それにしても、奴はここにいたわけだ。…やはり、沢野が…」
沢野さんは、違いますよ。
高松は、あごに手をやった。
たかが時計屋の戯言を、なぜ自分はここまで思い悩むのか。あの時計屋は、どうしてここまで細かく事件について知っているのか。時計屋の言うことから、この物的証拠を得た。しかし時計屋は、沢野が犯人でないと言う。事件について細かく知っており、しかも容疑者を犯人でないと断言できるのは…真犯人しかいない。
高松は頭をかいた。自分の直感ほど頼れるものはないと、今まで信じてきた。その直感はあきらかに示している。時計屋がこの犯罪には、全くの無関係である事を。しかし、捜査の論理で考えれば、時計屋ほど怪しい人物もいない。高松が考えこんでいると、
「二階、行かれますか?」
時田が促し、高松はそれに応じた。
ぎし、ぎし。
階段が、高松の体重に悲鳴を上げている。
上り切ると、外の日差しが柔らかく二階に差し込んでいる。
「四畳半が二つと、六畳が一つで、一番奥の部屋です。」
「そこに、生き残りの次男がいたのか?」
「ええ。…たっちゃんの具合、いかがですか?大きい病院に入ってるって聞きましたけど。」
高松が、吉野君を見る。
「へっ、あ、ああ、そうですねえ、元気、ではあるみたいですけどぉ、やっぱり衝撃が強かったみたいですよ~」
「でしょうとも。あのたっちゃんの目、地獄を見て来たような目でしたから」
「ふうん。そうだ、あんたどう思う?なんで次男は生き残れたんだろうか?」
時田が、ゆっくり振り返った。
「はあ、どうしてでしょうねえ…犯人が、たっちゃんに気がつかなかったからじゃないでしょうか?」
高松は軽く頷いて、各部屋の障子を開けていった。やはり、中央の部屋の血痕が生々しい。次男が見つかった部屋は、想像以上に整っていた。
家を出ると、時田がおくさん、と声を出した。
隣の家の庭に、三十代の女性が出ている。女は、時田に気付くと軽く頭を下げた。
「第一発見者の、山下さんのお宅の奥さんです」
高松が名乗ると、
「…警察の方にはもう、何度も同じことを言いましたけれど…」
と、山下菊代は言い渋った。
「本当に、これが最後と思っていただいていい。話を聞かせてほしいんだが」
菊代は、眉間に皺を寄せたまま、三人を庭に招きいれた。縁側を示し、四人は並んで腰を降ろした。
山下家の庭は、橋本家の庭に向かっており、縁側に腰を下ろすと、ちょうど橋本家の、今は雨戸が閉じてある縁側が真正面に見えた。
「橋本ミツさんとは、亭主同士が同じ頃に工場で働き始めたこともあって、仲良くしておりました。いつもお昼になると、どちらかがどちらかの家に上がって、他愛ない世間話をしていました。ミツさんは綺麗な人で、話も楽しくて明るい人でしたから、町内の人にもとても好かれて、だからまさか、あんな殺され方をするなんて…」
「橋本兵衛という人間について聞きたい」
高松が言うと、菊代は不意に口をつぐんだ。
「何だ?」
「橋本さんは…ちょっと難しい方でした」
「難しい?」
「あまり喋ったりされないし、でもよくお子さんを怒鳴っている声が聞こえたり、それに…」
「ミツさんにも?」
高松の言葉にはっと目を上げて、菊代は深く頷いた。
「なるほどな」
「怒鳴る程度じゃ済みませんでしたよ!」
時田が急に声を荒げた。
「ミツさんはたまに、顔に痣をつくっていたりしましたよ!ねえ、おくさん?」
「え、ええ…」
「ふうん、時田巡査、あんたも気がつくくらいはっきりだったということか?」
「そうですよ。女性をあんなふうに殴ったり出来るなんて、ちょっと信じられませんけれどね」
橋本兵衛は、妻を殴っていた。
高松はあごに手を当てた。
「子供たちとは、親しかったのか?」
「はい。特にたっちゃんとは、家の子供と同級ですので。」
「ほう、生き残った次男だな」
「ええ。うちは一人っ子なんですが、橋本さんのお宅は、お子さん五人に、おばあちゃんもいらして、いろいろミツさんも大変そうでした」
「上から、どんな子供だったか説明してもらえるだろうか?」
「長男の修一さんは、それは優秀な方でした。兵衛さんも一番厳しく育ててらして、成績は良いし、運動もとても良く出来て。優しいお兄さんでしたよ。先日、大学校に合格されましてね、近々、一人暮らしをなさるとかって言ってましたのに…。長女の康子ちゃんは、物事をはっきり言う女の子でした。さばけているというか。一番お父さんに反抗するのが康子ちゃんで、仲を取り持つのが大変だって、ミツさん、言ってました。次女の篤子ちゃんは、おとなしい感じの子です。でも挨拶もきちんとするし、真面目、という風かしら。小さい頃は、私がおはようと声をかけても、恥ずかしがってミツさんの後ろに隠れてしまったりしたものでしたけれど。たっちゃん、次男の辰次くんは、すごく言葉数が少ないんです。お母さんが大好きで、学校から帰ってくると、ミツさんが見えなくなる所には行かないんですよ。康子ちゃんは、たっちゃんをとっても可愛がっていました。たっちゃんは、お母さんと康子ちゃん、両方がいなくなると、すごく落ち着きがなくなってしまうんです。学校ではうちの和也以外とはあまりしゃべらずに、落ち着きがないという話を聞きました。三男の禅吉くんは、わんぱく、というんでしょうか。悪戯が好きで、よく兵衛さんに怒られていましたよ」
「…吉野、橋本一家の全員の歳は?」
「はい、ええと、」
吉野君は慌てて手帳を出した。
「えー、橋本兵衛が四十八歳、橋本ミツが三十五歳、長男修一が十八歳、長女康子が十六歳、次女篤子が十四歳、次男辰次が十一歳、三男禅吉が七歳、橋本タキが七十歳です。」
「お宅のご主人の歳は」
「え?は、はい、三十七です」
「それなのに、工場で働き始めたのは同じ頃…それは何年前の事だ?」
「じ、十三年前です。…あのう、橋本さんご一家は、元は名古屋の方にいたそうです」
「そうか。…じゃあ、こっちへ来てからの初めての子は、辰次なんだな?」
「はい。私は初産で、大層心配をしていたんですが、ミツさんは、私はもう四人目だからって笑っていました」
「奥さんとミツさんは、たいして歳は違わないんだな?」
「ええ、私は三十三ですから」
高松は、黙って橋本家を眺めた。
遠くで鳥が鳴いている。日は、少し暮れはじめている。
「高松刑事、町内会長を呼びましょうか?」
時田が声をかけた。
「…そうだな。お願いできるだろうか」
時田は頷くと立ち上がって、山下家の庭を出て行った。
「タキが住んでいた離れというのは?」
菊代が家の前の道の方を指した。
「そこの、道の向かいの小屋です。…あの日は珍しくご飯を食べに母屋へ来たようでしたけれど、いつもは大抵ミツさんが離れに食事を運んでいました」
「何か、母屋であったんだろうか?」
菊代は首を振った。
「分かりません。でも…殺されたあの人達を見た時、何か相談事でもしていたのかしらと思いました」
「どうしてだ」
「食事が…豪華でしたもの」
「ふうん」
先に高松たちが橋本家の居間に入った時にはすでに、机の上には何も無かった。警察によって押収され、鑑識が毒物反応などを見たはずだ。
「例えば、どんなものがあった?」
「鯛の煮付け、とか…」
「それは豪華だな」
「鯛は兵衛さんの好物だと、聞いたことがあります。だからそれを見たとき、私は…」
「奥さんは、どう思ったんだ?」
「…は、はい…ミツさんは、兵衛さんのご機嫌を取りたかったのじゃないかしら、って…」
高松は、にやりと笑って、するどいな、と言った。
「何だか刑事さんは、ちょっと変わっていらっしゃるわ」
菊代は、吐き出すように言った。
「何故だ」
「私、あのう、課長さん…青田警部、だったかしら、あの方にいろいろお話ししましたけれど、今の話や、昔橋本さん一家が名古屋にいた事、お話ししませんでした…聞かれなかったから、言わなかったというものもあるんですけれど…」
高松は困ったような顔で、額をかいた。
「いいんですよう、あの課長は、そんな事は聞かなくたって、お見通しなんですから」
吉野の言葉に、高松は声を出して笑った。
時田が、老人を連れて戻ってきた。時田は老人を、町内会長の林さんです、と紹介した。
「なんだか、嫌な事を思い出す顔ぶれです」
林は、菊代と時田を見ながら言った。
「あんな陰惨な事が、実際にあったということを、今でも信じられません」
「でしょうな」
林は、高松から少し間を置いて、縁側に腰掛けた。
「会長、歳は」
「六十八になります。工場を引退してからは、八期続けて町内会長という職をもたせてもらっております。」
菊代は、奥へ下がってお茶を持って現われた。林に対する態度から、林がこの町内の人間たちに随分と慕われているのが見てとれた。
「兵衛さんは…気性の激しい人でしたな」
高松が橋本一家について聞くと、林はそう言って言葉を始めた。
「仕事で、わしの下にいた事もありましたが、いつもは滅多に表情も変わらないのに、何かすると、同僚と取っ組み合いの喧嘩なんかを始めたりしましたよ…まあ、ごくたまに、でしたがね」
「ミツ夫人との事は…」
「ああ、何だかたまに殴られていたようですな。…この先、坂がありますな、あの坂を下った所に銭湯があるんですが、開店する三時より前にうちの家内が、その銭湯へ行ったら…家内はその銭湯の夫人と仲がいいもので…どうしてもと頼み込まれて、今、橋本さんの奥さんが入っているというんだそうです。どうしても、一人で入りたいんだというそうで。家内は、上がってきたミツさんをちらりと見たそうですが、どうにも体じゅうに痣が紫になって出来ていたというんです。多分、家で風呂に入ると子供たちも一緒でしょう。子供には見せたくなかったんでしょうな。ほら、この人達も見ていると思いますがね、顔にたまに痣を作っていたんですよ。…わしも随分心配しましてね、相談に乗ろうと言いました。でもミツさんは、構わないんだと繰り返すばかりで。」
「子供たちは、その事については何か?」
「いいや。あの家ではそれは禁句だったようです。公然の、秘密というか。」
「どうです、会長自身の、主観的な意見で結構だが、橋本兵衛は、元々そういう人間だと思うだろうか?」
「ん?…まあ、わしが彼を知ってからは大体、そういう人間でしたが」
「大体?」
「そう…そう言われれば、最初の頃は穏やかな男だと思っていたなあ。」
「ここに来てから、変わったと?」
「ふん…ああ、そういえばそのような気がします。なあ、キクさん、最初の頃は、別にとりたてておかしくはなかったとは思わないかね?」
「そうですね、そう…ちょうど、たっちゃんを妊娠したころから、兵衛さんは厳しくなったように思います。あんなに乱暴にして、子供が墜りてしまったらどうするのかしらと、他人事とは思えませんでしたから」
高松は、ふうんと言って立ち上がった。
「どうも、ご協力ありがとう」
「犯人を、見つけてください。」
菊代が、切実な目で高松を見た。
「俺が、出来る限りは。」
家を出たところで、時田と別れた。
「容疑者、検挙できるといいですね」
時田は言うと、微笑みながら自転車で去って行った。
「出来ますよね!師匠!」
「あの課長が辞めればな」
「ししょう~」
「おい、生き残りを見に行くか」
「は?」
高松は、早々に歩き出していた。
新宿。沢野の家は、目と鼻の先にあった。その病院に、高松は足を踏みいれた。
つんと、独特の臭いが鼻をつく。広い待合には、診察を待つ患者が溢れている。
「あ、きっとあの電話からうちにかけたんですよう!」
吉野君が示した先には、受付があり、その中に黒い電話が置かれていた。
「…おい、あの受付、誰もいないじゃあないか」
高松が不服そうな顔をした時、事務員のような服装の女が、ぱたぱたと駆け足で受付に入っていった。
「ちょっといいか」
「はい?」
高松は手帳を見せた。
「はあ、どうも。」
「この受付、今みたいに人がいなくなることもあるのか?」
「ええ、しょっちゅうですよ。忙しいんです、病院って」
受付の女は笑ったが、高松は苦い顔をしただけだった。
「師匠、これって…」
「誰にでも、電話をする機会があるって事だ」
受付の女は、高松と吉野君の顔を交互に見比べながら、
「あのう、さっきいらした警部さんの、お仲間?」
「警部?」
「ええ。五分くらい前にいらしたでしょう、あの、例の子供さんの病室に行くって。…違うんですか?」
「いや、そう、その警部に同行してるんだ」
高松と吉野君は慌てて受付を離れた。
「おい、ついてねえな、課長のやつ、来てるんじゃねえか?」
「あ!丁度いいですよぅ、聞き込みしてるところを、立ち聞きしましょう!」
「お、おい、ちょっと…」
吉野君は、どんどん廊下を進んで行った。
三階。白く塗られた木の扉の横に、三○五と書かれた板があり、患者名は書かれていない。
警官が二人、扉の前に立っていて、長い警棒を杖のようにしている。
階段の角から、ひょいと吉野君が首を出した。
「いけない、師匠、警備がいる」
「当り前だろうが。事件の唯一の生き残りだぞ。あれでも護衛が手薄いくらいだ」
「あぁ~、どうしましょう?」
高松が、きびすを返して階段を下って行った。吉野君があれ、ししょうと小さな声で呼ぶうちに、白衣を二つ持った高松が戻ってきた。高松は白衣を吉野君の顔に叩き付けると、
「行くぞ」
と言った。
警備についていた警官たちが、警視庁の人間で無かったのが幸いした。二人は、この問題刑事の顔を知らなかった。名前ならば聞き及んでいたかもしれないが。
二人の警護している部屋の隣の部屋に、医師が二人入って行った。ただ、それだけだった。
「こういう古典的な手でも、結構効くもんだな」
高松は、この患者のいない部屋で見つけた硝子の水飲みを壁に当て、その底に自分の耳を付けた。吉野君も、それにならう。
薄い壁だ。声は反響して、よく聞き取れた。
『よかったじゃないか』
吉野君が、うっと声を出して、自分の口を手で塞いだ。
青田の声である。
『まだ、話す気にはなってくれないようだがね』
沈黙。
『…ここに来て、もう何度も同じことを言った。聞こえてはいるんだろう?』
沈黙。
『…先生、彼は…そのう、言葉の方は…』
『ええ、もちろん喋ることが出来ますよ。看護婦とは、少し話していますからね』
担当医が同席しているらしい。
青田の、大きなため息が聞こえた。
『君の家族を殺した犯人を捕まえるためなんだよ?どうして、話してくれないんだね』
沈黙。
明らかに、青田はいらつき始めていた。
『おい!』
すこし、怒鳴ったように言う。
吉野君が、うへえっ被害者にどなった、と小さく言った。
『犯人を、捕まえたくないのか!』
『警部さん!』
医師に止められている。高松は嫌悪の表情のまま固まった。
『…ああ…まあ、いいでしょう。また来るから。』
靴音を響かせて、派手に扉を開け、青田は出て行った。
『ごめんな、驚かせたろう?』
『話す気になったらでいいんだ。でも、その間にも犯人は逃げてしまうかもしれないんだよ。』
口々に、生き残りの次男に取り繕っている声が聞こえた。青田に同行していた刑事らしい。多分、広田と前川だろう。
『患者に怒鳴り付けるなんて、言語道断ですよ!これからは、気をつけて頂きたい!』
医師が怒った声を出した。それはそうだ。
『す、すいません…』
広田と前川は、逃げるように部屋から出て行った。
『全く…あれでは話す気にならんよなあ、辰次君』
医師も、ため息まじりにそう言うと、部屋から出て行った。
二人は医者のふりのままで部屋を出、それから青田が病院を出たのを見定めて、もう一度病室の前へ戻ってきた。今度は白衣は着ていない。高松を知らない警官に、吉野が警察手帳を見せただけだ。
「御苦労様です」
護衛の二人は頭を下げた。
病室は、小さな個室だった。窓の外は別棟の病室の壁に接近していて、さして日はささない。換気扇がその壁に、うなり声をあげて張り付いている。古い病院で、壁などにはひびが見える。この辺りは爆撃を受けているかも分からなかった。
「辰次、君」
高松が、押し殺した声で呼ぶ。
窓の真下に、ベッドが置かれていた。頭を窓に、足を出入り口に向けて、少年は横たわっている。
高松は周囲をゆっくりと見回した。どの壁にも、特に何も掛かっていない。唯一、出入り口の横の、流し台の上に鏡が掛かっているばかりである。少年の右に滑車のついた台があり、水差しと手拭きが置かれていた。その横に、置き時計と硝子の水飲みが置かれ、窓に張り付くように、水飲みに差された花が活けてあった。少年は点滴をされている。意識はしっかりしているらしく、高松が動く方を、濁った瞳が追い掛けていた。高松は、ベッドの横に無造作に置かれた簡素な椅子に、腰を降ろした。
「別に、しゃべらんで、いい。」
吉野君は、ベッドから数歩下がった所で腕を組んで立っている。高松の邪魔をするつもりはないようだった。
「いいか、一つ教えておいてやろう。君は、まだ子供だ。子供の証言ってのは、裁判ではあまり役に立たん。…さっき君を怒鳴った警部は、難しい謎なぞを解こうとしているんだが、自分ではどうやら考える気はなさそうだな。答えを知っていそうな君に、その手がかりだけ教えろ教えろと催促しているわけだ。」
辰次が、すう、と息を吸った。
「はっ、いいんだ、教えてやるな。どうせ聞いたところであいつに謎なぞなんか解けるものか。」
うっすらと、辰次は笑ったようだった。
「…元気、なようだな」
高松は、口の片端を上げて言った。
「安心した。話を聞いたかぎりじゃあ、君はもう、ぬけがら然になって、ただぼうっとそこに寝そべってるようなふうだったから。…なあ吉野、こいつ笑うなぁ」
はいぃ、と吉野君も笑った。
「…山下のおばさんに、さっき会って来たんだ」
きゅう、と辰次の顔が歪む。
「心配していたぞ。少し痩せたんじゃねえかな。…いや今日、初めて会ったんだが」
辰次の表情が、少し弛んだ。
「へっ、まあ、ともかく元気になってよかったな。今度山下のおばさんに会ったら、そう言っておいてやる。」
高松は立ち上がった。
「…あー…」
高松と吉野君は、辰次の顔を覗き込んだ。
「てん、…ば…」
「何?」
辰次は、ぐっと目を閉じると、顔を背けてしまった。
部屋を出ると、吉野君は高松に耳打ちした。
「師匠には、なんて聞こえました?さっきの」
高松は眉を中央に寄せたまま、表情を変えずに言った。
「…天罰」
すっかり、寿司はなくなった。
時計は、すでに六時の鐘を打ち終えている。
「今日はすっかり、長居をしてしまいますね」
私は、店主にそう言った。
「高松さん、あなたは戻らなくてもいいんですか?」
「構うか。どっちにしたって、俺は好きにやってるんだしな」
「なるほど」
店主は苦笑して私に目を向けた。
「それで?なんです、天罰って?」
「俺はそいつに、振り回されることになったんだがな」
「振り回される?」
「野村さんは、どういう意味だと思いますか?」
「…そうですねえ…天罰が下ってしまって、お母さんたちは死んでしまった、とかですか」
「まあそんなところだろうな」
「…違うんですか。」
「それから俺達は、病院を出てすぐに、この時計屋に向かったんだ」
「おやこれは、刑事さん」
高松が重い扉を開けると、明るい声が出迎えた。
「今日は、怪しい男はおりませんよ」
「あんたが充分怪しいじゃないか、島中野さん」
そういえばそうでしたね、と店主は笑いながら、奥から椅子を二脚出してきた。
「どうです?沢野さんは釈放されましたか?」
「まったく逆だな。どうやらうちの課長に、このまま犯人にでっちあげられるんじゃねえかな」
店主は、眉をひそめて吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「そんなもの、誤認逮捕も甚だしい。…仕方がありませんな、ええ…お名前は?」
「高松だ」
「吉野ですぅ」
「高松刑事と吉野刑事に、真犯人を捕まえていただかなけりゃ」
「はっ、一般人にそんな心配していただかなくっても結構だ」
高松は苦笑いして下を向いた。
店主は、少し微笑んで立ち上がり、吉野君の方へ近付いた。
「吉野刑事、時計はお好きですか?」
「え?ええ、嫌いじゃーないですけどもぉ」
「どうです?どれか試着しませんか」
吉野君は天井近くまでびっしりと時計の詰まった壁を、ぐるりと見回した。
「いいんですかぁ?」
「ええ、どうぞ。」
吉野君は自分の時計を外し、店主はそれを受け取った。吉野君は、東の壁に近付いて、あれこれと見始めた。
「やはり、あったんですね」
しばらくの間、高松は、その言葉が自分にかけられたものだと気付かずにいた。
「…何だ?」
「柱の傷ですよ」
高松の顔に、緊張が走った。
「…手前」
「それも、かなり克明に。…やはり沢野さんには不利なものばかりだ。居間を踏み荒した跡も、きっと突き止められてしまうでしょう。…これは、参ったことになった」
「おい、どうして分かる!」
高松が声を荒げた。店主は、ゆっくりと高松に視線を合わせる。
「違いましたか?…ただ事実を述べたまでですよ」
高松は、鬼のような目をぎらつかせて、椅子を蹴って立ち上がった。
「一体どういう了見だ?…それともなにか、あの家へお前が行ったとでもいうのか?説明しろ。返事次第では、俺はお前を連行するぞ」
店主は、まるで高松の怒りを感じていないように、高松を見ていた。視線を外して、微笑みながら吉野君の前に立つ。吉野君はといえば、高松の怒りにおろおろとして、選んだ時計を握ったままだった。
「ほう、こちらですか。」
店主は吉野君からその時計を取り、吉野君の時計をその掌に返した。
「…吉野刑事、気をつけたがいい。暗闇には、誰かが潜んでいるでしょうから」
「へ?」
「高松刑事、お聞きしたいことがあります。その、一家殺しのあった家に、時計はありましたか?」
「…何だと?」
「置き時計でも、腕時計でも何でもいいんですがね。どうです?」
高松は、睨むのをやめて、この奇妙な店主を見た。日本語の通じる相手とは思えない。まるで自分の話以外は答えず、そして語る事と言えば、脈絡すらない。
「島中野さん、いや、島中野。あんたそれは都合がよすぎるってものだろう。俺は刑事だぞ。そうそう答えてばかりはいられないぜ」
「事件の解決は、共通の目的でしょう?」
「事件の解決に、家の時計が関係あるっていうのか!」
店主は、だだをこねる子供に、さてどうしたものかと思案している親のような表情を浮かべた。
「…おい!」
「そういえば時計なんてありませんでしたよねぇー」
高松は吉野君を睨みつけた。吉野君はあせったように口を閉じた。
「なかった?そんなことはないでしょう。それでは暮らしが立ち行かない」
「お前には関係のないことだろうが!」
「…そうですなあ、高松刑事、ではこうしましょう。賭けをしませんか」
「賭け?」
「これから二日間だけ、私の言うように動いて頂けませんか。二日の間にこの事件が解けたら、手柄はあなたのものだ。署内でも一目置かれることになるでしょう。もしも事件が解決しなければ、それはそれ、私を逮捕するなり、連行するなりお好きにするといい。たった二日、もう事件発生から三箇月も経っているんですから、取るに足らない時間でしょう。如何です?のりませんか?」
高松は、腕組みした。
「…あんたが犯人かもしれないのに、俺が掴んでいる情報を全て渡すのか?」
「賭けですから、それは。その情報の中に私らしき人物でも浮かんでいるんですか?」
「ふん。うるせえ。…おい、あんたは動かないのか?」
「私は店がありますから。」
呆れて、高松は店主を見つめた。
「あんた、人生がかかっているかもしれん賭けの間に、商売を続けるつもりか?」
「もちろんでしょう。私はこれで食っているんだ。何です?職権乱用ですか、それとも営業妨害?」
「…すきにするがいいだろう。あんたが不利になるだけだからな」
高松はしばらく顎に手をやって考えていたが、
「…ようし、じゃあ条件を出す。明日の七時からの二日間だ。今日からこの吉野を置いていく。それであんたを見張らせる。」
「し、師匠、そんな急に!」
「男が外泊くらいでつべこべ言うな。俺は明日からあんたの言うように動く。吉野、いいな?便所にもついて行け」
「師匠~!」
「結構です。ふふっ。何だか自分が凶悪犯のようですな」
「似たようなもんだ。逆にもっとタチが悪い」
店主は声を上げて笑った。
「おい、慶子!今日からお客様が泊まるから、部屋を作ってくれないか」
二階から、はあいという声が聞こえ、高松と吉野君が見上げていると、ひょこりと階段の踊り場から夫人が顔を出した。
「お二人?」
「いや、一人だよ。ああでも、私の布団も運んでおいてくれ」
「…なんですって?」
「一緒の部屋に寝泊りするんだ。私は見張られるんだよ、刑事さんにね」
夫人は、いつもの様に高らかに笑って、
「まあ、奇特な趣味ですこと!」
と言って引き込んでいった。高松は確信しているのだった。この島中野紋十郎が、この事件に一切関わりがないことを。しかし、もしかしたら一番真相に近いところにいるのがこの男であるのかもしれないとも、思っていた。
高松が、雪の積もった道を難儀して避けながら七時に店に到着した時、大きくのびをしながら、丁度店主が店から出てきた。
「おはようございます、高松さん。昨夜は冷えましたね」
昨夜は相当雪が降った。高松は、おうと顔をしかめたまま小さく言った。
前日のうちに、高松は今まで調べた事を店主に全て話してしまっていた。その夜店主は、全ては明日ですな、と言って笑った。
「吉野はどうした」
「まだ寝ていらっしゃいますよ。昨日は遅かったですから」
「俺もあんたも同じだろうが!」
高松は店主を押し退けると勝手に二階に上がり、吉野君がすっかり熟睡しているところへ乗り込んだ。
「馬鹿野郎!」
「うはっ!」
吉野君は飛び起きた。浴衣の前がはだけ、枕を抱いている。
「はっ、はあ…師匠に怒鳴られる夢を見た」
「夢じゃねえ!」
あっと声を上げると、吉野君は腰を抜かして再び布団へ倒れ込む。
「お前が寝込んでどうするんだ!逃げられたらどうするつもりだ?」
「はぁ…すいません…」
ひとしきり高松が怒鳴っていると、島中野夫人が顔を出した。
「高松さん、朝の食事はされましたの?」
「あ、僕はまだですぅ!」
「寝起きが分かりきったことをぬかすな」
「あはははっ、どうですか、お二人とも、お食事、召し上がりません?」
ひどく苦い顔をして、高松は頭を下げた。
向かいの扉を開くと、店主と息子の琢巳少年が朝食をつついているところだった。
「あ、さあどうぞお二人とも。貧しい食事ですがね」
「時計屋以外なら、もう少し儲かりもしましょうに!」
すかさず夫人が店主に返し、店主は鼻をかいた。
高松は、居心地悪そうに席についた。それを見計らって吉野君が満面の笑みを浮かべて席につく。そういえば、と高松は思った。どうやらこの夫人、時計屋も、時計自体もさして好きでは無いようなことを言っていた。
「今日は、俺はどう動けばいい」
高松は、鮭を箸で割きながら尋ねた。
「警察で、沢野さんと面会して下さい。昨日、お話したその通りを沢野さんに話してみるといい。それからやはり生き残りの辰次少年の所へも。」
「ふん」
琢巳少年が、ごちそうさまでしたと言って席を立った。
「気をつけて」
「はい、お父さん。煙草は吸い過ぎないように。」
店主が何か言おうとしたそばから、琢巳少年は逃げるように鞄を背負って出ていった。
「口の減らない愚息でして」
店主は嬉しそうな顔で言った。
今朝の取り調べは、午前十時からだと聞いていた。
高松はすぐに、捜査一課に向かった。
「早いな、高松」
声をかけて来たのは広田である。
「おう、課長のお守、御苦労なことだ」
「実際、お前みたいに嫌われてしまった方がなまじ連れて歩かされるよりはよかったのかな」
高松はにやりと笑った。昨日の病室での事を言っているのだろう。
「今日は課長の取り調べは、十時からだろう?」
「そうだ」
「面会は、叶うか?」
「面会?無理だ、沢野の妻だってまだ面会できちゃいないんだぞ」
「ふん…じゃあ、十時前まで、俺が取り調べしてもいいだろう?」
「な、なにっ?」
広田は席を立って高松に近付いた。
「そ、そりゃ無理ってもんだぞ、高松!」
「どうしてだ、俺だって刑事だぞ?」
「状況ってもんがあるだろう!」
「あんたさえ黙ってりゃ、分からないだろう。万一知れても俺の責任だ」
広田は、言葉を接げずに口を動かすだけだった。
「第三取調室、借りるぜ」
「…よ、よしそれじゃあ、三十分だ。これ以上は見逃せん。」
「恩にきる。」
高松は自ら留置場へ向かった。
むき出しの壁に、足音が響く。
酔って寝ている者、膝をかかえて目だけをこちらに向ける者、壁に寄りかかり立っている者。
左の奥の格子の前で、高松は立ち止まった。
「沢野」
男は振り返る。目の下が黒い。初めて会った時、妻に見送られながら家を出て来た男とは、似ても似つかぬほどにやつれている。沢野であった。
「…あんた…」
「話をさせてもらえないか」
「あんたが、か?」
答えず、高松は鍵を出して扉を開ける。
静かに、沢野が出てくる。高松が手錠をはめた。取調室まで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
取調室に入ると、沢野は心得た動きで、窓に背を向けた椅子に座った。高松は、沢野の向かいの椅子を机から離して引き、そのまま足を放り出して座った。
「久しぶりだな。俺が刑事だっていうのは、分かっていたろう」
「…」
沢野の瞳は、何も見ていない。
「時間が無いんだ。…始めるぞ」
高松は、ぐいと体を前に出した。
「あの時計屋、覚えてるな」
沢野の目に、薄く光が差す。
「あの時計屋、妙だろう。…そうだ。あいつはあの時、あんたを心底驚かせたんだ。あんたは怖くなって、逃げ出した。」
高松は、故意に間をおいてから、ゆっくりと言った。
「…あんたは、血の海を、見た。」
びくり、と沢野の肩が動いた。
「最初は、救けようとした。ばあさんや、次女や長男に声をかけて廻った。でも、息は無いようだった。違うか?」
「…何、が、」
沢野は、唇をかんでいる。顔は蒼白である。
「時計の竜頭を、壊してしまったとき…あんたは何を見た?」
「…俺は…やってないんだっ!」
沢野は激昂して立ち上がった。高松は続ける。
「あんたはただひとりの遺体だけ、体を起して抱き寄せた。遺体だと分かっていて抱き寄せたんだ。…時計屋は言うんだ。もし自分以外の世の中の全ての人間が死んでいて、そこに横たわっていたとしたら、誰を抱き寄せるかとね。…あいつは言った。私ならば、二人です。息子と、妻」
沢野の目が、充血したように赤い。
「愛している者だけです。あかの他人など触ることもないでしょう、とな」
「…私は…」
「屍骸に囲まれた薄闇で、あなたは何を見た?それとも…聞いたんだ」
うわあああああ、と沢野が絶叫した。
「沢野、お前ガイシャとは、橋本ミツとはどういう関係だ?」
「ううう…」
「橋本ミツと、お前は…」
「言うな!」
高松が口をつぐんだ。沢野は、そろそろと顔を起し、高松を睨み付けた。
「…私は、ミツを愛していた」
「…」
「不義であるのは違いない、でも、私は兵衛に殴られ続けて、それでも耐えているミツを、放ってはおけなかった!」
「…お前達はどうして、知り合った」
「ミツとは…同郷で…小さい頃から知っていた。…十二年前、私は橋本兵衛が勤めるあの工場に、部品を納入していた」
「橋本夫婦が越して来て一年後か」
「そこで、久しぶりにミツと会った…最初は、妹のようなつもりだった。兵衛は、ミツが四人目を身ごもった頃から、ミツを殴るようになった。…あいつは、悪魔ですよ。でも…ミツは別れようとはしなかった」
「それで?あの日、あんたは何をしに橋本の家に行ったんだ?」
「…十二年ですよ、十二年。ミツは耐えていたんだ。あの日…私は彼女を迎えに行った」
高松は、いぶかしげに沢野を見やった。
「十二年も経ってか?」
「ようやく、妻が離婚を了解してくれたんです」
高松は思い出す。物干し台から声をかけていた、普通の主婦。
「私は、妻を嫌いになったのじゃあない。…ただ、ミツを救い出さなければならなかった。妻に離婚を切り出したのは五年前で…妻は、私がいつか戻って来ると思って、待っているといって聞かなかった。しかし、私も気持ちが変わることはなかったんです」
徐々に、沢野は冷静になってきていた。
「とうとうあの日、あんたは奥さんに離婚を承認させて、橋本家に向かったわけか。…時間は」
「夜の…十一時を回っていました。仕事が長引いて…。一人で仕事をしていたので、その時刻まで工場にいたことを証明できる者がなくて…」
「十一時とは非常識な時間だな。予告なしに行ったのか?」
「いえ。妻が離婚を認めたのはあの日よりも前でした。手紙で、あの日家に行くことを告げておいたんです」
「…聞いていいか。その手紙に、あんたは離婚の事や、ミツを迎えに行く旨を書いたのか?」
「まさか!もしも兵衛の目に留まったら、ミツがどんな目に遭うか知れない。ていねいに、お伺いしたいと書きました。でもきっと、ミツには分かっていたでしょう。」
高松は沢野を盗み見る。沢野は、思い出を見つめていた。
「沢野、あんたが何を見たか、聞いたか、話してもらおうか」
沢野の視点は変わらない。しかし表情は、明らかに強ばった。
「…私が、あの家に着いた時、灯りは全て消えていました。…私は…ミツは起きて待っていてくれるものと信じていましたから、とりあえず、玄関に向かって…扉を叩きました。返事は無くて、今度は声をかけました。…それでも返事はないので、家の様子が覗けるところはないかと、最初は縁側の方へ向かって行って、…でも雨戸まできちんと閉まっていたので、今度は炊事場の方へ回っていって…」
沢野の目が、見開かれてゆく。
「…すると、少しだけ、小さな窓が開いていたので、私はそこから、家を覗きました…。」
「何が、見えた?」
「何も、見えませんでした。月の明りが差す方向では無いし、ただ、暗闇に顔を突っ込んでいるようだった…その時」
びくり、と沢野の体が動く。
「…音を聞いた」
「何の、音だ?」
「重い物が、放り投げられるような、音。」
「…重い物…そばでした音か?」
「いや、遠くで、くぐもったように…聞こえました。私は、いろいろ考えて…ミツの身に、なにかあったかと思って…窓から家に入りました…」
「まず、何を見た?」
「…暗闇に目が慣れると、最初に机の上のごちそうが見えました。何の気なしに、そちらへ近付いて行って、…たくさんの…死体を…」
「触らなかったんだな。息を確かめたのか?」
「明らかに、死んでいました…恐ろしくなって、外へ出ようとした時…私は…つまずいた」
沢野は、頭を抱えた。
「…ミツの死体に。」
「あんたはそれで、ミツの体を抱き起こした。そうだな?」
幾度も、沢野が頷く。
「しかし、ミツは息絶えていた。あんたは立ち上がって、ここから逃げようと思う。」
「警察を呼ぼうと思ったんだっ!…でも!」
「…でも?」
「よろけて…柱にもたれかかっていた。その時…」
沢野が、悲鳴を上げた。高松は沢野の体を引き、声を荒げる。
「その時!何だ!何があった?」
「…す…ず、鈴が!」
「鈴?」
ちりん、ちりん。
沢野は、床に座り込む。
「鈴の音がした…。最初は小さかった。そのうち…激しく鳴り始めて…その後は、…覚えていない…」
「気がついた時は、どこにいた?」
「家の前に…。家に入ろうとして、自分が血だらけなのに気がついて…家には入らず、庭で着ていた作業着を焼いた…。後で、時計が壊れているのにも気がついて…修理に出した。ベルトの血は、ちゃんと拭いたと思っていたのに…」
高松が、ふいに立ち上がった。
「俺の取り調べは、終いだ。立て」
沢野は、おどおどと立ち上がる。
「なるほど、お前は犯人じゃねえな。…だがな、お前は、手前の事しか頭にねえ、ひどく自分勝手な下衆野郎だ。分かるか?」
沢野は突然怒鳴られている理由が皆目分からないふうな顔をした。
「…ちっ。そうだろうよ。お前には分からねえよ。一生な!」
高松は、沢野の胸ぐらをつかんだ。
「…何が不義だ。ミツを愛していただ!いいか。これだけは言っておいてやる。…橋本ミツはなあ、お前のことなんざ、相手になんかしちゃいなかったんだよ!」
「…なっ!」
「じゃあ聞くが、お前とミツの間に、不義と呼べるくらいの関係があったか?それどころか、お前はミツに気持ちを確かめたこともねえだろうが!違うか!」
沢野が蒼白になる。高松は沢野を突き飛ばした。
「自分の保身しか考えてねえから、あんな殺しの現場を見た後で、のうのうと服を焼いて、別れる決心した女と暮らせるんだろう!…何だって、急に俺にはぺらぺらと喋った?俺がお前とミツの関係を色恋沙汰として問いただしたからか?お前の言う愛だの恋だのなんて、他人にひけらかしたいだけの、下らねえ虚栄心じゃねえか!」
崩れていく。沢野は表情を失って、その場に座り込んだ。
その時急に扉が開いて、広田が焦った顔で飛び込んできた。
「高松!」
「どうした、広田。三十分はまだ経っていないだろう」
「まずいんだ、課長の取り調べ時間が繰り上がった!」
「なに!」
「…とりあえず、お前はここから出ろ。後は俺に任せておけ!」
「すまん」
高松は駆け出して部屋を出ると、向かいの通路に飛び込んだ。
すぐに、青田が現われた。
「広田!」
「はい!」
広田が第三取調室から出て来る。
「すぐに取調べだ。準備しろ」
「はい!すでに被疑者はこちらに連れてきてあります」
「なに?」
青田が、広田を下から見つめる。広田は、自分が正しいことをしているのを確信しているというふうに、青田を見つめ返している。高松は広田を見直した。
「…それは用意のいいことだ。よし広田、お前も同席しろ」
「勉強になるぞ、広田」
青田の後ろにいた前川が、声は極めて厳粛に、顔は苦笑いで言った。
「はい!勉強させて頂きます!」
気分の良さそうな顔をして、青田が取調室に入ってゆく。
広田は、高松の方を見て軽く合図し、泣く真似をしてから部屋へ入った。どうやら、何日もかけて落せなかった沢野を高松がこの短い時間で落した事を知っているふうである。
高松は笑い、それからふと真面目な顔をして、その場から離れた。
「…時計屋め、全部あいつの見定め通りにいきやがった」
思わず、一人言が漏れる。
「とっても良い子ですよ」
若い看護婦は、布団を整えながら言った。
「困らせることが無い?」
「ええ。苦いお薬だって自分で飲んでくれますし」
昨夜降った雪は、今日の青空を痛い程に輝かせている。高松は目を閉じた。窓を見続けていたので、残像がちかちかと残っている。
「…躾がよかったのかしら」
「うん?」
六台ある寝台を、手際よく片付けてゆく。高松と話し始めて、すでに四台目だった。
「ああいう子、前に一度いたわ。…ああ、そうだ。辰次君と同じだわ」
「…何がだ?」
「クリスト教の子ですよ。辰次君も、クリスト教なんですって。」
高松は、しばらく口を開けて考え、言葉を選ぶように言った。
「それは…辰次は、クリスト教の信者で、前にあんたが世話したクリスト信者の子供の患者も、辰次同様、おとなしくて良い子だったと、そういうことか?」
「ええ、そう。」
看護婦は、枕をぽんぽんと叩いた。
「食事の前はちゃんとお祈りしたりするんです。」
「辰次がか?」
「いえ、前の患者さん。…そういえば、辰次君はしませんね」
右かと思うと左という、この看護婦の話に、高松はほとほと疲れ果てていた。
「辰次が自分から、僕はクリスト教徒ですと言ったのか?」
「いいえー。一度だけ、十字を切るのを見たの」
「十字?」
「あら刑事さん、ご存じありません?」
初めて看護婦は振り向いて、胸の前で十字を切る。
「こういうの」
「まじないか」
「当たらずとも遠からず。まあ、私も信者じゃないですから、そんなに詳しくは知りませんけれどー。でもその時の辰次君、自分でもびっくりしたみたいな顔をしていましたよ。なんだか、してはいけないことをしたような素振りで」
看護婦はまた仕事に戻る。高松は、再び窓を見た。一体、家族の誰の影響でクリスト教に入っていたのだろう。
「病室、行ってもいいだろうか?」
「ええ、今なら辰次くんも起きてると思いますよ。くれぐれも、あの警部さんみたいに怒鳴ったりはしないで下さいね!」
どうやら青田は、かなりの有名人になりつつあるようだ。一緒にするな、と高松は吐き捨てた。
扉の前に立つ巡査二人に手帳を見せ、高松は中に入った。高松の名前に、少々反応していたが、そうといって本庁の刑事を制止するほどではなかったようである。
やはり日の差さない部屋だ。
「おう」
そしてやはり辰次は起きている。目だけが活発に動き、他の機能は停止しているようだ。高松は寝台に近付いて、小さな椅子に座った。
「昨日の晩は冷え込んだろう。降ったんだよ、雪が」
辰次は、窓の方へ視線を向けようとする。しかし窓は後ろにあるので、目は空を漂っただけだった。
「積もってるぞ、割合と。」
自分の靴を指差す。革靴は濡れて、よろりとしている。
「辰次君よう、俺もなぞなぞを解き始めたんだ。それでやっぱり、お前が随分とその手がかりを知っていそうだってのは、知れてきた」
辰次は、ゆっくりと瞬きしている。
「…まあでもな、俺はその手がかり無しで、このなぞなぞを解いてみせるぜ。どうやらお前の手がかりを貰う時は、なぞなぞがほとんど解けかかった時のようだからな」
辰次は、顔ごと高松の方を向いた。
睨みつけるように高松を凝視している。
高松は思う。この少年は、自分がどういうなぞなぞの出題者か、どういう手がかりを持っているか、はっきりと自覚している。
次々と、高松は言葉をかけていく。
兵衛のこと。
兄のこと。
弟のこと。
下の姉のこと。
反応は無い。しかしこれは予想していた態度だった。ここからだ、と高松は思う。
「…クリスト様ってのは、どんなものだ?」
明らかに、辰次は動揺した。顔色が、少し青ざめる。
高松は昨夜の時計屋の事を思い出していた。高松が、反応を見せない辰次の事を話したときである。
『反応をしませんか。…しかし、本当は喋るし、動けることも知れている。実際は普通に動けるわけですね。…要は刑事に対してだけ、反応を見せないようにしているわけでしょう。その少年を喋らせるには…そうですね、揺さぶるんですよ』
『揺さぶる?』
『とにかく、少年の近辺の話をするんです。いくらか話していれば、いつか少年を揺さぶる話題があるでしょう。はっきりと動いたり、喋ったり、顔色を変えたりするような。聞きにくいと思うような、例えば死んだ家族にまつわる話でも構いませんよ。その糸口をみつけたら、そこをこじ開けて、えぐるんです。』
『えぐる…なんだか、そういう心理戦は柄じゃねぇなあ』
『いいえ、私は高松さんは、割合得意だと思いますがね。そう、その少年を叫ばせることでも出来れば、相当の当たりでしょうね。…少年が隠している事は、その中にありますよ』
隠している事は、その中にある。
糸口を掴んだという手応えはあった。
「クリスト様を拝んでいるのは、家族の中では誰だ?全員か?…いや、親父さんは少なくとも違うだろうな。お前も見たこと、あるだろう?親父さんはお袋さんを、よく殴った。」
これも当たり。辰次の目が異常に動く。
「…誰が、お前にクリスト様の事を教えてくれたんだ?…上の姉さん。違うか?」
また当たった。辰次は高松の方をちらりとも見ない。しかし視線は泳いでいる。
「どうして、十字を切れなくなった?食事の前のお祈りは?」
ぎちぎちと音がするほど、辰次は奥歯を噛んでいる。
大当りだ。高松は思う。母親と、長女と、クリスト教。この辺りに、答えはある。
高松は、静かに辰次を見つめた。辰次が、急に高松を見た。目が合った。
「なあ。俺は思うんだよ。お前はなぞなぞの出題者で、手がかりを持ってる。…でもなあ、お前は気付いていないかもしれないが、お前もなぞなぞの一部なんだ」
もう一押し、そう思った時だった。
「師匠~!」
「吉野!」
高松は驚いて立ち上がった。
「お久しぶりです~朝からご苦労さまですね~」
吉野君が駆け寄るのと同時に、高松が拳で吉野君の額を打った。
「お前、なにしていやがる!」
「いだいー」
「おいっ、島中野はどうしたんだよ!」
「店にいますぅ~」
「いますってお前!」
高松が怒鳴りつける前に、吉野君は掌を開いて高松に見せた。
「…なんだ?」
「手錠の鍵ですぅ。島中野さんはお店にしっかりつながってますから大丈夫~」
「大丈夫ってなあ、」
「僕は着替えを取りに行くのと、島中野さんに調べものを頼まれたのと、両方あるのでそれを…」
高松は、怒った素振りで吉野君から鍵を奪い取る。
「あ。島中野さんが話を聞きたいそうですからぁ、店に戻ってくださいねー」
「…ああ!」
吉野君は笑って、
「ああ、そうですぅ、どうでしたか、沢野は?」
「うん?やっぱりホシじゃねえなあ。まるぎりあいつじゃねえ。あいつに殺人をやる度胸なんかねえよ」
「あー師匠、じゃあ上手く沢野と話せ…」
絶叫だった。
高松と吉野君は同時に振り返った。
信じられない光景だった。
辰次が、寝台の上に立っている。そして絶叫している。
「何ですか!」
看護婦が二人、部屋に入って来た。高松たちを押し退け、辰次に駆け寄る。辰次は絶叫しながら暴れた。二人は辰次を拘束する。次々に医者が入って来た。
高松は吉野君を連れて部屋を出た。階段に向かったが、下からも看護婦がやってくるのを見て、いつもとは逆の方向へ移動する。
「師匠、なんですか、どうしたっていうんですぅ?」
「分からん!」
本当に分からない。何が辰次を絶叫させたのか。
時計屋は言ったではないか。
『その少年を叫ばせることでも出来れば、相当の当たりでしょうね。…少年が隠している事は、その中にありますよ』
今の中に、隠している真実があった?
どこだ?…分からない。
廊下の突き当たりは、はめ込み式の硝子窓になっている。新宿の町が見渡せる。町は、雪に覆われていた。
「まずいだろうな。課長に怒鳴られるぞ」
「僕これから本庁に行くのにぃ~」
「まあせいぜい、姿を見せないように行くんだな。お前…」
高松が、喋るのをやめた。
「…何です?…師匠?」
吉野君は顔を上げて高松を見た。高松は、大きな目を見開いて、窓の外を凝視している。
「どう…か、しましたかぁ…?」
吉野君は、高松の視線の先を追う。高松はかなり真下辺りを覗いている。見ると、真下には病院の玄関が見える。
「あぁ、ここって病院の正面のところなんですねぇー」
「…たいして離れていないな」
「へ?」
「ここと、辰次の部屋だよ」
吉野君は振り返る。すぐ先の部屋では、激しく人が出入りしている。辰次の部屋である。
「…ええ、そうですねぇー」
「見てみろ」
「へ、何をです?」
高松が窓の外へ指をさしている。
「どれですぅ?」
「ほら…洗濯物を…干してるぜ」
「あ!」
高松の指の先には、かなりはっきりと見える位置で、沢野の妻が洗濯物を干していた。
「見えたんですか」
私は茶碗を持ったまま尋ねた。
「ああ、はっきりとな。嫌な予感がした。」
高松は畳に横になりながら、ぼそぼそと言った。
琢巳少年が、がらり、がらりと雨戸を閉めている音が聞こえる。時刻は七時を回っている。
「そうだ、蕎麦でも取りましょう」
店主はにこにこと笑って言い、琢巳少年を呼んだ。
「…天麩羅蕎麦」
高松が寝言のように言う。
「高いものを…ええと、じゃあ私は、狸蕎麦で。」
琢巳少年がやってきた。
「琢巳は何を食べたいんだ?」
「かつ丼…はだめですか?」
いいよいいよと店主は笑うと、琢巳少年に蕎麦屋へ注文をしてくるようにと言った。
「天麩羅蕎麦と、狸蕎麦と、鰊蕎麦と、かつ丼だ。覚えたか?」
琢巳少年はにんまりと笑って駆け出して行った。
「高松さん、おごりませんよ私は」
店主がからかうように言うと、高松は寝そべったまま、どんと机の上に財布を乗せた。
「…つい三日前が給料日だ」
「ということは、空ってことじゃあないんですか?」
「うるせえな」
店主は声を出して笑うと、私の方に向き直った。
「続けましょう。…高松さんは、何かを悟ったような顔でこの店にやってきました…」
高松が、重い店の扉を開けると、店主は壁際で本を読んでいた。
「ああ、どうもお疲れさまでした。」
「…逃げてはいなかったようだな」
「逃げやしませんよ。理由がありませんからね」
店主は目を細め、短くなった煙草を最後にひとつ吸い込んで、灰皿に押し付けた。
「驚かすんじゃねえよ。吉野が現れた時は肝が冷えた」
ああ、と店主は、左手を動かす。壁の飾りの柱に、手錠がしっかりかけられている。
「厠へ行けないので、茶も飲まずに待っていたんですよ。」
高松は、不機嫌そうな顔のまま、店主に近付き手錠を外した。
「どうでした、収穫は?」
「いろいろ…分かった事がある。」
二人は、向かい合って座った。店主は、かかっていたオペラのレコオドを盤から外した。
高松は、上目使いに店主を見ながら言った。
「沢野はな、あいつは下衆だよ」
店主は微笑んだまま高松を見ている。
「あんたの言っていた通りだ。あいつは、果てしなく長い時間、十二年間もだぞ?ミツを想い続けていたという。でも、そいつは押し付けだ。勝手な思い込みで、ミツとの不義を作り上げていたんだ。…異常だろう」
「どうして、二人は知り合ったと?」
「同郷らしい。…後でそれは裏を取ろう。」
「あの日、ミツを救け出そうとか、そういうことですかな?」
「その通りだ。しかも夜中の十一時だぞ。」
店主はふんふんと頷いていたが、急に、自分のせいだと気付かなかったのですかね、と言った。
「…何だと?」
「だから、自分のせいだということですよ」
「何がだ?」
「当然でしょう、兵衛の暴力ですよ。兵衛は四人目の子供、これは辰次君ですがね、この子が出来た時から急に身辺に現れ出した、間男の影に怯えて、嫉妬していたんですよ」
高松は、むうと言って黙った。気付かなかった自分がどうかしている。
その通りなのだ。兵衛が暴力をはたらき出した時期と、ミツと沢野の再会は、ぴたりと同時期ではないか。
「…で、沢野さんは自分が原因とも分からずに、ミツを気にかけてあしげく橋本家へ通った。しかも兵衛の留守を狙ってです。本末転倒でしょうに」
「ミツというのが、俺には分からん。暴力をする夫から逃げるでも、勘違いして疑惑の種を運んでくる男を突き放すでもない。…どうしてだ?」
「ううむ、そうですな。性質だとしか言い様がないですなあ。根なし草でごった返す東京で、同郷の人間に会えるという事が特別だったのかも分かりませんしね。でも確実に分かるのは、ミツは兵衛を大層愛していたということでしょう。それでなければ、疑われたまま、十二年も一緒に暮らせるものでは無い。まあ、兵衛の暴力が、自分を愛しているが故の嫉妬から来ているというのに気付いてしまえば、暴力が愛の証に思えたのかも分かりませんがね」
「…俺には、全く分からねぇ。複雑で、こじれた愛情ってやつは」
そこへ、慶子夫人が茶を持ってやってきた。慣れたふうに茶を出すと、狂った愛が愛おしいという事もあるんですよ女には。と言った。
「こら、立ち聞きしているものじゃあない」
「こんな狭苦しいところにいたら、嫌でも聞こえますわ」
また店主は言い返せない。店主は、割合に尻に敷かれている。
店主は久方ぶりに飲む茶をゆっくりと口に運びながら、哀れといえば哀れですねえ、と言った。
「ミツか」
「沢野さんですよ。端から見てどうであれ、橋本夫婦の間には、沢野さんなどが入り込む隙など毛ほども無かったんです。それを十二年間もですよ」
「まあそうだが、一番哀れと言えば沢野の妻だろう。六年前から、こんな実際には事実としては何事も無かったことのために離婚を切り出されて、結局はそれを認めさせられたんだからな」
「認めていたんですか?」
「そうだよ。沢野はあの殺しのあった日の少し前に、離婚に同意させたらしい。…まあ、結局はあんたの推理通りミツには全くその気は無かったわけだがな。沢野は、あの日に橋本家に行くというのを手紙で知らせていたんだが、内容は全く当たり障りの無いものだったらしい。ということは、だ。その気の全くないミツは、それを額面通りに受け取った。それで、」
「鯛です」
店主は煙草に火を付けた。マッチを振って火を消す。
「うむ、鯛だな。兵衛の機嫌を著しく損なうであろう男の訪問に備えて、先手を打って兵衛の機嫌を取ったわけだ。隣の主婦の推理は正しかったんだろう」
「私はね、高松さん。ちょっと思っているんですがね、いつもは食事には同席しない祖母が、あの日に限って同席していたでしょう?もちろん、御馳走をこさえたからというのもあったんでしょうが、私は、ミツさんは沢野さんの目的を薄々気付いていたんじゃないかと思うのですよ。だから手紙の意味もわざとそのまま受け取ったし、家族が全員いる前で沢野さんに会って、家を捨てる気も出る気もないのだと、沢野さんに知らしめる気だったんじゃないでしょうか」
そうかもしれんな、と高松はぼそりと言った。
「そうそう、」
店主は身を乗り出した。
「聞けましたかね、竜頭を壊した原因を?」
「…それが妙なんだ」
「妙、といいますと」
「やっぱりあんたが言ったように、暗闇の中だったせいで、視覚じゃあなくて聴覚の方だったぜ」
「ほう、何を聞きましたかな、沢野さんは」
「音は二つ。一つ目は最初に家を炊事場の窓から覗いた時だ。そのときは、遠くの方からする、重いものを落とすような音」
「ほう?」
「二つ目は、ミツの遺体に動揺していた時だ。鈴の音を聞いたというんだ」
「鈴ですか」
「最初は小さくて、そのうち激しくなったという。この二つの音の間には大した時間の差はない。…そいつは、犯人の仕業に違いねえということになるだろう?」
「確かに。そうでしょうねえ」
「沢野はそれに心底驚いて、柱に時計をぶつけたのも気付かないで腰を抜かしながら逃げたんだ。しかし、玄関から逃げたのじゃあない。鍵は掛かっていたからな。炊事場の窓に付いていた足跡は、内側から出たものもあった。それはあんたも言っていたな。」
「ええ」
「…鈴を鳴らしたのは犯人だ。しかし犯人の足跡はない。」
二人は押し黙った。店主が口を開きかけると、高松はそれを制した。
「ああ、いい。後で言う。…先に、病院の話だ」
店主は高松を見つめた。
「なにか、ありましたね?」
「…あんたの方法は有効だったよ。てきめんだ。」
「辰次君は、声を出しましたね?」
「…叫んだよ」
店主は身をのりだして、何を言ったのです、と言った。
高松はそれに答えなかった。
「俺は、あの女を見たんだ」
「どの女です?」
「…沢野の、女房だ。あの病院の、辰次の病室のある階の廊下には、病院の正面に向いた窓がある。看護婦に確かめると、辰次が身体訓練の為に看護婦に連れられて通る道筋は、その窓の脇を通るらしい。…辰次は、外を見たんだ」
「沢野さんの奥さんが見えたということは…なるほど、沢野さんを見たんですね」
店主は、煙草を口から離した。
「…では、電話を掛けたのは、辰次君だと?」
「ああ。あの声を殺した喋り方じゃあ、子供だろうが分からないだろう。…俺に、沢野の事をたれ込んで来たのは、辰次だよ」
高松はひどく疲れたような顔をした。
「辰次は、時々体を動かす為に病院内を散歩するらしいんだが…さっき、警備を担当している警官を締め上げたら、白状した。あの電話があった日、散歩中に辰次を一度、見失ったというんだ」
「ほう!その人たちはそれを隠していたんですな!」
「まあな。結局辰次は見つかったわけだし、薮蛇で減俸にでもされたらつまらないからな」
辰次はそれを見越していたのかもしれねえな、とつぶやく。
「…辰次が叫んだのはな、俺と吉野で、沢野の無実の話題を出した時なんだよ」
高松の耳の中に、あのちぎれるような辰次の声がする。
「俺が考えるに…辰次はあの日、沢野が母親の死体を抱きかかえているのを見た。それで、犯人は沢野だと思った。多分、辰次と沢野は面識があったんだろう。それから、あの病院で、沢野の家を発見した。…それでたれ込んだんじゃないだろうか。辰次は母親にべったりだった。」
店主は、何か考えこんでいた。
「…それでは、あれは何なんです?」
「あれ?あれてのは何だ」
「天罰、という言葉の意味ですよ」
「だから、沢野が…」
「それは妙でしょう。沢野が犯人でないのは、辰次君が一番ようく知っているはずだ」
「…なんだと?」
店主は、慎重に、言葉を選んで話す。
「…なぜなら、間違い無く…辰次君も、その鈴の音を聞いている…はずでしょう?…私は…確実に、沢野さんが犯人でないのを知っています。だから、全面的に…沢野さんの発言を信じます。辰次君が、息をひそめて沢野さんが母親を抱いているのを見ていたのだとすれば…まず、鈴の音を聞いているでしょう。ならば…」
「そいつは、どういう意味だ?」
高松は、睨むように店主を見る。
「犯人が、別にいて、鈴を鳴らしていたのを聞いていたか、あるいは…」
「おい、それは…」
「あるいは、彼が被害者の側でなく、加害者の側だということですよ」
沈黙が、数分も続いたろうか。
店主の吐く煙だけが動いている。
「…考えたこともない…」
高松が、吐き出すように言う。
「あいつは餓鬼だ、しかも、クリスト教徒だぞ!クリスト教徒は一番殺しやら、そういうものにうるさいんだろう?だから」
「クリスト教徒?」
店主が高松をさえぎった。
「あ?…ああ、そうらしい。一度、看護婦が十字…を、切るのを見たそうだ。もっとも、どうも焦ってやめたらしいがな。それで…」
「ちょっと、待って下さい。それは…意味が全然、違ってきますな」
「何のだ?」
「天罰の意味です。宗派によってもいろいろあるでしょうが、…なるほど、もともと考え違いをしていたのかもしれません。しかも…何故、焦って止めたんでしょうな。…これは…辰次君という存在を、全く読み違えていたのかも…」
高松は、椅子に座り直した。
「待て、どういうことだ?読み違えるてな、何だ?おい、島中野、あんた…」
店主は、何かを見ていた。煙草を、深く吸う。
店主は語り始めた。
後に、聞いた話である。
吉野君は頭を下げて、家の玄関を出た。
「夜分遅く、失礼しましたぁ」
「いいえ」
軽く微笑んで、山下菊代は吉野君を送り出す。
「おかまいもしませんで」
「いえいえいえ、いやはや。」
吉野君は山下家を出ると、静まり返ったその家を振り返った。
「時計かぁ…こりゃあ…」
もうすっかり、辺りは暗くなっている。足早に、その場を後にした。
吉野君は一度、警視庁に寄って、その足で島中野時計店を目指していた。
夜も、八時を過ぎていた。
人通りのない、裏道である。如何わしい店も無いではなく、道一本入れば、人の気配はする。
その道はやたらに暗かった。
吉野君は、その時奇妙に思って立ち止まった。
…足音?
自分以外の足音がする。
立ち止まって、振り返った、その時である。
頭に異様の激痛を感じた。
声も出なかった。目から火が出て、その後視界が赤くなるのを感じた。ずんずんと、重い痛みが頭上にのしかかってくる。
何だろう。
そう思った瞬間、吉野君の意識は途切れた。
とうとう、前日、吉野君は島中野時計店には現れなかった。
代わりに高松が店主と同室で眠り、いら立ちながら二日目の朝食をかきこんでいた。
「あいつは一体、何してやがるんだ!」
高松が白米を一膳空け、どんと茶碗を置くと、慶子夫人は笑いながらまた茶碗に飯をよそいだ。
「…そうですねえ…私の頼んだ事といっても、そう大した用事でないし…」
「時計があるか、ないかぐらいの事だろう?」
店主は高松を残して店に降りていった。高松が、夫人に頭を下げながら味噌汁をよそわれていた時、
「あああ!」
店主が下で叫ぶ声が聞こえた。
「どうした!」
高松は食事を置いて階段まで出て階下に顔を出す。
「いけない!忘れていた!…高松さん、すぐに警察に戻って下さい!」
「なんだ、突然?」
「吉野君の身に何かあったかもしれない!…ああ、あの時もっと注意しておけば!」
高松は、意外なほど強引な店主に言われるまま、警視庁に戻った。
事態は、ひどく悪かった。
「…意識は、ありません」
廊下を駆け出そうとしていた高松を呼び止めて、里島は言う。
「おい里島、一体何があったんだ!」
「分からないんです!新宿の、暗い裏通りで、頭から血を流して倒れていたと、それだけ知らされました。」
「…新宿?」
多分、そうだ。吉野君は島中野時計店に向かっていたのである。
「通り魔の犯行だろうと、課長は見ていました。…原因が、他には考えられませんから…」
高松は、急に弾かれたように捜査一課に戻った。
「おい!誰か昨日、吉野に会ったやつは?」
「ああ、俺、会ったぞ」
前川が手を上げた。
「何を、何か言ってたか?」
「あ?ああ、捜査課の壁新聞を探していたなあ」
「壁…新聞?」
「お前みたいな不良刑事は見たこともないだろう。ほら、知らんか、課長室の斜向かいの掲示板に、月一で壁新聞が貼り出されているだろう?」
「…あんなところ、まず俺は行かんから、知らん」
だろうな、と前川が薄く笑う。
「何を探していたんだ?吉野は」
「そこまでは聞かなかったが…多分資料室に仕舞ってあるだろうって俺は答えたぞ。それと、あいつ何処かに電話を…」
最後まで聞く前に、高松はまた捜査一課を飛び出す。
下の階の資料室に駆け込んだ。薄暗く、埃が舞う。激しく扉を開け閉めしたので、整理をしていた老署員が驚いて振り返った。
「…おや、高松さん」
「昨日、吉野がここへ来たか?」
「へえ、来たよ。ああ、吉野さんといえば、こりゃとんだことで」
「おい、どれを探してた?」
老署員は、筋張った腕で指差す。
「壁新聞の、毎月綴じてるやつだよ。ほら、あすこにあるだろう。」
黒いひもで綴じられた本が、乱雑に棚の横に積まれている。高松は側に寄り、顔を近付けた。
埃の跡を見ても、どうも一番上の一冊しか動かされていない。
高松は薄いその本を開く。
一番最初にあるのは、今月の新聞である。大きく扱われているのは、難航している橋本一家殺しの記事である。軽く目を通し、その前の月の新聞を見る。そこにも、また同じように難航していることを告げる記事が載っている。しかし、まだこれから捜査は本番であるというような、威勢のいい記事になっている。
三ヶ月前、橋本一家殺しのあった月の新聞を見た。
もちろん、一番に載っているのは橋本一家殺しの記事である。我々は一刻も早くこの事件を解決し、市民に平穏を取り戻さねばならない、としめられている。
指でなぞりながら、高松はある記事に目を止めた。
小さな記事である。見出しには、『青田課長 人道的見地カラ被害者ヲ見舞ウ』とある。
青田捜査一課長は、事件での唯一の生存者、橋本辰次君の要望から、家にあった時計を渡す事を容認した。辰次君は、事件のあった家から病院へ運ばれる時に、家族との思い出の染み込んだ時計を持ってゆくことを希望し、青田課長は、被害者への配慮を失うことは、警察官として最も恥ずべきことであるとし、自ら家から時計を持ち出し、少年に手渡した…記事はそう告げている。内容は、青田賛美である。
「…おい、こいつは…現場の証拠品じゃねえのか?」
高松は思わず声を出す。
時計。吉野はこの記事を覚えていたのだろうか?それでもう一度ここへ来て、記事を確かめてから、島中野の店に報告の為に向かったのだ。
「高松、さん?」
資料室の扉が開く。里島である。
「おい!里島!お前、こいつのこと、知ってるか?」
高松は里島に本を突き付ける。
「は?…ああ、もちろん知ってますよ…」
「どういうことだ?こいつは!証拠品を、大して確かめもする前から、現場から出したってことか!」
「まあー、そういうことにはなると思うんすけど…辰次君の、たっての願いでしたし…」
「ああ、お前、現場にいたのか?」
高松の剣幕に押されるように、里島はたじたじと答える。
「…ええ、そうっす。」
高松は、顔が歪むのを感じた。
青田が、どうして高松の言い分などを聞き入れたのか、それは今も分からない。
高松に時計の件が違法だと脅されて、というのが正直なところだろうか。
青田は、課長室に乗り込んで来た高松の言い分を全て飲み、沢野、沢野の妻、辰次、時田巡査、山下夫婦、町内会長の林、捜査一課の刑事の前川、広田、里島、そしてもちろん青田、これら事件の関係者を全て連行して、島中野時計店に向かった。
驚いたのは、島中野夫婦である。
「こんなに大人数は、椅子が足りませんわ!」
夫人は慌てて茶の用意をしながら、高松を睨み付けた。
「慶子、いいんだ、すぐ済むから」
店主は笑顔で、夫人を二階へやる。そして高松に向き直った。
「高松さん、今…ちょうど正午ですな。では、午後の一時からまた、店を開きたいと思っておりますから、それまでに済ませてしまいましょう」
「おい、君!」
青田は、せめても威厳だけは取り戻したいというように、声を荒気て店主を見た。
「ああ、青田捜査一課長でいらっしゃいますな。お噂は、よく聞かせていただいております。」
「高松から聞くのかね。ならば皮肉や悪態ばかりだろう」
「いいえ!優秀で、理解のある方だと、いつも。」
高松は青田に見えない所で苦笑いした。
「さあ、高松さん、始めてください」
店主が、高松に促す。
「…俺が、話すのか?」
「当然でしょう。私は一市民に過ぎませんよ。」
高松は、狭い店内にぎしりと揃った人間達を振り返った。
左に、山下夫婦が辰次を気づかいながら立っている。辰次は青ざめて、椅子に腰掛けて毛布を膝にかけている。その隣には前川と広田が立ち、時田巡査と林老人が囁くようにして何か話している。ちょうど入り口の扉の前に、皆より一歩下がって里島が立っており、青田は手錠をした沢野の腕を掴んでいる。一番右に、唇を噛む沢野に寄り添うように、沢野の妻が立っていた。
「…課長。まずこれを言わなければならんのです」
おもむろに、高松は始めた。
「そこに手錠をかけられている、その沢野は、許せん男だが、犯人じゃあない」
「何を根拠に!」
高松は、青田の言葉を無視して沢野に向き直る。
「昨日、俺に話したことを、課長に言ったのか?」
沢野はゆっくり首を振る。
「課長。沢野があの家に行ったのは、すでに殺しが済んだ後だった。…そこで沢野は、ある音を聞いている」
「音?」
青田が、覗き込むように沢野を見る。
「明らかに、沢野以外の動く音と、鈴の音。これは…真の犯人が発した音だ。沢野は、重要な証人ではあっても、犯人じゃあないんだ」
「分からんな!どうしてこの男が、お前にだけ話したことを真実だと認めろというんだ?」
「単純に、現場の状態から言ったとしても、沢野の単独犯人説は無理がある。…あんただって、気付いていないわけじゃないだろう?一階の居間には、確かに沢野のいた痕跡がある。しかし二階には、沢野がいた痕跡はなかっただろう?こいつは無理があり過ぎだ」
前川と広田が、お互いの顔を見合わせる。
「それと、課長は辰次少年の証言を?」
「お前は証言を取ったとでも言うのか!」
「いいや」
高松は薄く笑って、体ごと辰次に向き直る。
「今日は、この全員の前で、辰次君から証言をもらおうと思ってるんですがね」
辰次の目は、異様なほど充血している。高松を呪い殺すかのような視線を送っている。
「まず、菊代さん。お聞きしたいが、橋本の家で、クリスト教に入っていたのは、誰だ?」
菊代は、驚いて一瞬、口ごもった。
「あ、ええ…あのう、ミツさんと、長女の康子ちゃん、それと…たっちゃんです。…あのう、その事は、昨日、時計の事を聞きにいらした刑事さん…吉野、さん?あの方にも聞かれました」
店主が、ちらりと高松を見る。
「そう。俺が聞いてくるように言ったんだ。しかし、吉野はその報告も出来ないで、病院でぐうぐうと寝ているわけなんだが」
里島が目を伏せた。
「菊代さん。辰次君は、大好きな母親と、大きい姉さんに言われるままにクリスト教に入って、やりたくもない集会なんかに出ていたんだよなあ?」
「いいえ!全く逆です!たっちゃんは、一番熱心にクリスト様やマリヤ様を崇拝していました!私にも、よくクリスト教の教会で聞いた説法を教えてくれたものです。ねえ、たっちゃん!」
辰次に、反応は無い。ただ瞳だけがぎらぎらと光っている。
「ほう!それは初耳だ!看護婦の話じゃあ、辰次は思わず切った十字を、あせって止めるくらい、クリスト教が嫌いだと聞いていたんだが!」
その場の全員が辰次に視線を集中する。高松の言葉を、そのまま受け取ったものはいなかった。
「辰次君よう、どうしたんだ。どうしてクリスト様に感謝するのを止めたんだ?…クリスト様に、顔向けできないようなことがあったのか?」
「う…る、さい!」
辰次が、絞り出すように叫んだ。
「初めて会った時、お前は、俺に言ったんだ。『天罰』ってな。…天罰ってな、何だ?両親に天罰が下るってのは穏やかじゃない。最初は、お前はその天罰が両親に下ってしまって悲しんでいるんだと俺は思っていたんだよ。もし、下るとすりゃあ、親父さん、兵衛にだと思った。しかし、違ったんだな。」
「おい、高松!順を追って話せ!」
我慢できなくなったように、青田が言葉を挟んだ。
「…沢野、あんた、故郷は何処だ?」
「長野だ」
ぼそり、と沢野が答える。
「そう、長野だってなあ。…菊代さん、あんた、橋本ミツに、故郷の事を聞いた事があるか?」
「は、え、ええ。長野だと…」
「課長。沢野順一と橋本ミツは、同郷の出なんですよ。」
青田は、顔を赤らめて怒鳴る。
「そんな事は、知っておる!」
「はあ、失礼しました。じゃあ、沢野とミツが再会したのがいつか、もちろん知っておられる、と。」
高松の皮肉心が少し顔を出す。青田は返事をしなかった。
「そう!その通りです課長!十二年前、ちょうどミツが辰次を身籠っていた時だ。その年、橋本一家は、名古屋から東京に越してきた。菊代さん、間違っているだろうか?」
「い、いいえ。」
「それから、この沢野と言う男は、ミツに横恋慕した。」
「そ、それは兵衛が!」
沢野は、そこで言葉を止めた。
歪んだ視線が、沢野の言葉を止めたのだ。辰次である。
「逆なんだよ、おい。兵衛は、お前がミツと親密に会っているのを見て、嫉妬でミツを殴るようになったんだよ。原因はなあ、元を正せば、お前なんだよ!」
沢野は、寒いように身を縮めた。沢野の妻は、そんな夫を悲し気に見つめている。
「…辰次君を…兵衛はどう思っていたんだ?」
広田が、高松に声をかける。
「それは、俺も辰次君に直接聞きたいところだがね。…林さん、あなたから見て、兵衛の辰次君に対する態度はどうだっただろうか?」
「…少なくとも…わしは、叱っているのと、殴っているのしか…見たことはない。そいつはしかし、辰次君だけじゃあなかった。」
「禅吉君にも、ですか」
林老人は頷いた。
ぎい、と潰れた声がした。
菊代がしゃがみ込んで辰次をかき抱いている。暴れながら、辰次が声にならない声で叫んでいるのだ。
高松はその時、視界の隅で店主が移動しているのに気付いた。すっと、辰次の側へ回ってゆく。
「辰次君は、クリスト教徒だが…父親に愛されている気はしなかったろう。そりゃあそうだ。兵衛は、実際辰次君と禅吉君については、自分の子供だかどうだか、疑っていたに違いないんだからな。辰次君が、父親を愛せないのも無理はない。…そのうち、それは憎しみに変わる。」
「僕は!憎んでなんかいない!」
菊代にしがみつくようにして、辰次は絶叫した。
「本当にか?一瞬でも、父親を憎まなかったと、言い切れるのか!」
高松は追い詰めるように声を荒げる。
里島が、焦ったように言った。
「ちょ、ちょっと待って下さい!高松さん、じゃあ、犯人は…」
「ああ、そうだよ!」
高松の視線が、その小さな体に注がれている。
「犯人は…!」
高松は、とうとう、その名を口にしようとしていた。
その時。
がしゃん。
大きな音がして、全員が、辰次までもが動きを止めた。
破片が、床に散らばっている。
ガラス張りだった文字盤が、むき出しになっている。重そうな、飾りのついた金の柱にひびが入っている。
店主はその場で、真っ青になって立ちすくんでいた。
「…おい、島中野…?」
最初に声をかけたのは、高松だった。店主はしかし、その声に答えない。反応できずにいるようであった。
「…おい?」
はっと、店主は息を呑んだ。
するとみるみるうちに、全身が小刻みに震え出す。
「おい、どうしたんだ!」
店主の視線が、側で見上げる辰次を捕らえる。
「…君は…この世の地獄を、見たんだね」
店主はまだ、震えている。その震える指で、辰次の頬を撫でた。
「どういうことだ、島中野!辰次は…犯人じゃないのか!」
ゆっくりと、店主が首を振る。
「高松さん…そうです。あんな地獄を…子供がやれるものではない。残虐だとか、そういう理由ではないんです。身体的にも、大人を四人以上も殺せるわけがない」
辰次は戸惑いの瞳で見上げていた。
「辰次君。私は…クリスト教徒ではないけれど…罪は、信仰を放棄すれば解決するものではない。罪を認めて、悔い改めることで初めて許されるのじゃあないのかな?」
う、うう。
嗚咽がもれる。辰次が、店主を見上げた。
「高松さん。あなたは、玄関に鍵が掛かっていて、開いていた窓には沢野さんの足跡しかなかったのを、犯人が家に残ったからだとしましたね?」
「…そうだ。」
高松は、急変した事態を理解しようと、店主の顔を覗き込んでいる。
「私もそう思いました。…しかし、こうも考えられるでしょう。家に残っている人間が、犯人を送りだし、そして、鍵を閉めたとも」
「…なに?」
「当日の事を考えてみましょう。十一時頃、沢野さんは現場に行った。玄関が開いていないので、唯一開いていた窓から顔を覗かせて、まず音を聞いた。…沢野さん、そうですね」
沢野が頷く。
「遠くで、どさりと何かが投げられる音。その後すぐに沢野さんは家に入った。居間に散らばった遺体に驚いて歩き回り、ミツさんを見つけた。そして、鈴の音を聞いた。」
「そう…だ」
「その鈴の音も、遠かったんですか?」
「いや、近かったんだ。…だから驚いて…逃げたんだ」
「そう。近かったんです。いくら沢野さんが動揺していたとはいえ、いや、だからこそ、もしも何かが近くで移動するような気配があれば、気付かないはずがないんです。最初の音は遠くで聞こえ、鈴の音は近い。音を発しているのが同一のものなら、移動したことに気付くでしょう。…だから音を発したものは、二つあった。」
「犯人と、辰次か?」
高松は、顎に手をやって鋭く言う。
「…この、時計。私が今、取り落としてしまった時計です。辰次君、これが何か、分かるかい?」
「時計…」
菊代と里島、そして青田が何か発しかけたのを、店主は手でとめた。
「辰次君、誰の、何処にあった時計だい?」
「…びょういん、の…時計…僕の、部屋にあった、時計…」
全員に、動揺が走った。
「おい、辰次君!覚えていないのかね!この時計は君が希望して、家から持っていった時計じゃないか!」
青田が焦ったように言った。
「…うちの、時計?…そう、ああ、そう。台所に…あったやつ」
辰次は、明らかに思い出している。どう見ても、「思い出が染み込んでいる」と思っているようには見えない。
「通報があって警察が入ってから、あの現場にいた方、挙手していただけますか」
店主が、皆に促す。
青田、前川、里島、時田、林、山下夫婦が手を挙げる。
「青田課長、先程、高松刑事から興味深い新聞記事を見せていただいたのですが、あの時計は、辰次君が家族の思い出の染み込んだ時計だから、持っていかせてほしいというので、人道的見地から、それを許可されたのでしたな?」
「そ、その通りだ」
「その事は、辰次君本人から言われたんですか?」
「いや、違う…。前川、お前が私にそう報告したんだ。」
青田はどぎまぎと前川に向き直る。
「え、ええそうでした。」
「では、前川刑事、あなたは直接、辰次君にその事を言われたんですか」
「いや、ああ、あの時いた、中野署の警官に、そう言っているらしいと聞かされたんだ」
「私も、それを一緒に聞いていましたよ」
里島が同意する。
「成る程。…おや?そう言っているらしい、と言っていたのですか?」
「そういえば、あの警官も、仲間に聞いたらしいこと、言ってたすよ」
「…誰が…直接聞いたか、この中でどなたか、ご存知ありませんか?」
全員が、おそるおそる首を振る。
「では、辰次君に聞くほかありませんね。…辰次君。あの時、その時計を持って行きたいと、君は誰かに言ったのかな?」
「言って…ない」
「おい、島中野、そりゃあどうした訳だ?辰次も言ってねえ、誰も聞いてねえのに、どうして辰次がその時計を持ち出してるんだ?」
店主は答えず、辰次の前にしゃがみ込んだ。
「辰次君。君は、昔からお父さんを憎んでいたかね?」
辰次は首を振る。
「でも、ある時、お父さんを憎み始めたんだね。…きっかけは、何だい?」
「あくま、が。」
「悪魔?」
「サタンが、ある日僕のところへやって来たんだ。」
店主は手を、辰次の肩に置く。
「君に何を?」
「お母さんは、サタンの仲間だって」
「…どうして」
辰次は唇を噛んだ。
「…お母さんは、他の男の人と会っていると、その悪魔は言ったかね?」
辰次は、じっとしばらくこらえていたが、不意に頷いた。
「神父様は…そういうことは、一番いけないことだって…地獄に落ちる行いだって、そう言っていたんだもの」
「悪魔は、そこの沢野さんの事も君に話したね?」
辰次は頷く。
「それから…お父さんや、お姉さん達、弟、お兄さんの事も、家族全員の悪事を君に話したんだね?」
強く、何度も何度も頷く。辰次の瞳から涙がこぼれた。
「兄さんは…学校へ行っているとみせかけて、芸者さんの所へ行っているとか…篤子姉さんは、三好商店でお菓子を何個も何個もぬすんでいるとか…禅吉は、自分がお父さんに怒られそうになると、それを僕のせいにしているって。…康子姉さんは…クリスト様を本気で拝んでなんかいないって、本当は、教会に来る、隣町の三枝さんのお兄さんの事がすきだから、それで教会へいってるだけなんだ、とか…。父さんは…一番、いけないって…お母さんや、僕らを殴っているから、必ず地獄に墜ちるんだって…」
事実なのかも知れない。しかし、それを幼いこの少年に、後生丁寧に教えてやる必要もない。
「あの夜、君の所に、またその悪魔がやってきたんだね。…なんて言ったんだい?」
「あの男が…お母さんをさらいにくるって…そうして、お父さんも、兄さんも、姉さんたちも、禅吉も、全員僕を置いて出ていってしまうって…サタンは言ったんだ…天罰を、与えてやらなきゃって。僕を置いて出ていってしまう前に、天罰を与えてやらなきゃって…!サタンは、…最後に僕に聞いたんだ。…天罰を、与えるかって。俺にはその力がある。…お前が許すなら、俺はやつらに天罰を与えよう、って…。」
天罰。
「…僕は…うんって、言った。天罰を…天罰を与えてやってって、言った…。」
辰次は、顔を大きく歪めて、泣いた。
「サタンは玄関で…僕の目の前で、にげようとしてた康子姉さんを殴った。…血が、いっぱい出た。…そのうち…血でべたべたになってる鈴を僕にわたして、だれかが来たら、めいっぱい振って、知らせろって…!あの…沢野のおじさんが入って来た時、僕はこわくなって、…うごけなくて…でも、お母さんに触ったのをみてたら…僕…!」
「その、サタンって誰なんだ!」
高松は辰次に詰め寄り、肩をつかんで大きく揺さぶった。
「サタンは…サタンだもの!」
辰次が高松を睨み付ける。
「…辰次君。サタンは、いつも君にどうやって会いに来たんだい?」
「…雨の日になると…来るんだ。部屋の窓の外から。…禅吉は寝てしまっていて、僕は…二人きりでしゃべったんだ」
「顔を見た?」
「真っ黒い…ゴムの匂いの雨合羽を着ているの。声は…息だけで、しゃべる。頭まで被っているから、顔は…見たことないよ…」
その時、山下菊代はあっと声を上げた。
視線が動かない。誰もいない方を向いたまま、手を口にやり、止まっている。
店主はその様子を見て、菊代の腕をとった。
「…あなたは、感のいい方だ。鯛の料理を見て、ミツさんが兵衛の機嫌を取ろうとしていたことにも気付かれた。…雨、黒い雨合羽。これで思いつく方は、そう多くはないでしょう。誰が辰次君の言を借りて、あの時計を現場から持ち出したのか、それも気付かれたんですね。でも、もういいです。私が言いましょう。」
店主は、全員の顔が見える位置に立った。
「サタンは、もちろん悪魔ではありません。悪魔の姿を借りた、ただの殺人犯です。犯人は、どうやらミツさんを偏執的なまでに愛していたようです。犯人の前では、沢野さんのミツさんへの愛も、単純なものに見えるほどです。犯人にとって、ミツさんはただの女性ではなかった。…そして、辰次君は、犯人にとって特別でした。だから、辰次君は殺せなかった。それは…父親に愛されず、女神と思えるほどに母親を愛していた自分と、辰次くんが全く重なっていたからです。そして、辰次君に、殺人の実行を促すという、悪魔にも劣る愚劣な行為をしたのです。」
店主が一歩、前へ出る。
「犯人は、雨の日には必ず、夜、表へ出て、ゴム製の雨合羽を着ていた者」
また一歩、前に出る。
「犯人は、当日現場にいて、辰次君に容易に近付けて、それが不思議でない者」
そして立ち止まる。
高松は、その店主の言葉の刺すような冷たさを、今でもはっきり覚えている。
「時田巡査。ゴム製の雨合羽についた返り血は、そうそう簡単には落ちませんよ」
高松は、耳の中で何かが弾けたような気がした。
時田が、笑っていた。
腹がよじれるほどに楽しいというふうに、声を上げて笑っていた。
「いい加減なことを!」
笑いながら、時田は叫ぶ。
「いい加減ではありませんよ。雨の日の夜は必ず巡回しているあなたなら、いくらでも辰次君の所へ行くことが出来たでしょうし、雨合羽がよしんば処理されていたとしても、あなたの指紋は、あの家からいくらでも出てきます。さして触らなかったはずの、禅吉君の遺体のそばからもね。」
店主は、全く表情を無くして、時田に向かう。
「…吉野君の事は…やってくれましたね。山下さんの奥さんは、その事からも気付かれたんでしょう。奥さん、あなたは昨日の夜、時田さんを見ましたね?」
「は、はい。吉野刑事が…うちを出て行った後、自転車で走っていく時田さんを見ました。…でも、あの…」
「いえ。吉野君が何の事について探っていたか、立ち聞きしていた可能性があるだけでも充分です。吉野君は、橋本家の誰がクリスト教徒だったのか、そして橋本家の時計について探っていました。クリスト教徒については分かりました。奥さん、時計については、何と答えましたか?」
全員が、真意を計りかねたように店主を見つめている。
ただ、時田巡査だけが、刺すような視線を向けていた。
「はあ、橋本さんの家にある時計について、全て教えてほしいとおっしゃったので、確か兵衛さんがお嫌いだとかで、炊事場にあるのが一つだけだと言いました。そんなものは無かったように思うと、吉野刑事は言うものですから、ですから、あの時そちらの警部さんがたっちゃんに持たせたものじゃあありませんかと…」
店主は、ハンケチを出して、それを使って壊れてしまった時計を丁寧に拾い上げた。
「時田巡査は、それを聞いて吉野君を襲ったのでしょうな。…そう、時田巡査は、上手く現場から消し去ったこの時計を、また捜査線上にのせるわけにはいかなかった。何故なら」
時計を、高松に差し出す。
「これが、実際の凶器だからです」
「な、何!」
「だからか!」
前川が叫ぶ。
「吉野は、昨日どこかに電話をしていたんだ。あれは、病院だったんだな!」
「多分そうでしょう。高松さんととって返して、病院に時計を取りに行こうと思っていたんだと思いますよ。まず高松さんと話してから、と。その前に、警護している刑事さんに連絡を取ったんだとみますね」
「汚名もいいところだ!すべてあなたの勝手な想像でしょう!」
たまらずに、時田が声を上げた。
「物的証拠…そうですな、この時計からも血痕と、あなたの指紋は出てくるでしょうそれと…辰次君、サタンが君に渡した鈴、あれをどうしたんだね?」
辰次は、怯えたように店主を見た。
「サタンに言われたように、捨てたかい?」
店主は、ゆっくり問いただす。
辰次は首を横に振った。
「隠して、あるよ」
ざあっと、黒い風が吹いたようだった。
時田が、辰次に襲い掛ったのである。
高松は、ほんの一瞬の出来事を、たいそうゆっくりと見た気がした。
山下菊代とその夫は、体を呈して辰次をかばった。
押し退けられた林老人がよろめく。
そこにいた、複数の刑事が一斉に時田を抑え込もうと動く。
瞬くほどの間だった。
決着は、すぐについていた。
時田は、その場で捕えられた。
時田が捕まった一週間後から、島中野時計店に、奇妙な客が出入りし始めた。
黒いコオトを着た大男で、おおよそ時計を買うでもなく、ただそこにいて、茶を飲んでいたりする。
高松である。
「どうですの、具合は」
島中野夫人は、我が物顔に待っている男に茶を注いでやりながら聞いた。
「頭蓋骨に異常はなかったらしい。まあ、大丈夫でしょう、殺したところで死なない男です、吉野は」
「よかったですわ!」
夫人はにこにこ笑って奥へ引く。
高松がその茶をすすっていると、奥からレコオドをひらひらさせた店主が現われた。視線を高松に向け、視線があった途端に落す。
「…何を勝手にやって来て、何を勝手に茶など飲んでいるんです」
「奥さんが注いでくれたんだ、勝手に飲んでいるわけじゃあない」
そういうのを減らず口と言うんだ、と言いながら、店主はレコオドに針を落した。やはり、オペラである。テノオルの美声が、店内を振動させている。
「手ぶらで来たわけじゃあないんだよ。時田の、幼少時代の事が分かったから教えに来たんだ」
「聞きましょう」
店主は、高松の向かいに椅子を置いて座る。
「時田…時田正次の実家は、福島だ。猪苗代湖のそばの、長閑な村だよ。長閑すぎて、いまだに時田の家族の事は、誰も忘れていない。」
「…というと?」
「時田の母親は、そりゃあ美人で有名だったが、時田の父親という男は、働きもしないで、何処かに行っているかと思えば、帰って来て暴力を振るう、やくざものだったらしいんだな。それで仕方無く、母親は大きな町に出て、女郎まがいの仕事をして、三人の息子を養っていた。村じゃあ、評判の一家だった。」
「でしょうな」
店主はいつものように、煙草に火を付ける。
「そこで、だ。重要なのは、妙に環境が似てるんだな」
「時田と辰次君がでしょう?」
つまらん、と高松は吐き捨てるように言った。
「まあ、あんたは知ってたみたいな口ぶりだったからな。…何故かは後で問いただそう。時田は、母親にべったりの、男三人兄弟の真ん中。兄貴ほど期待されてもいないし、弟ほど甘え上手で要領も良くない。印象に残らない餓鬼だったと、近所のじいさんは言ってたそうだ。時田の親父の暴力は、そりゃあすさまじいものだったようだな。親父が家にいる時は、美人の母親は、片目が潰れるくらい顔を腫らしていたらしい。状況が変わったのは、時田が十の時だ。母親は、町の男と駆け落ちすることにした。さあ、子供をどうするか。ここに置いていけるわけがない。一番下の餓鬼は、まだまだ手のかかる時期だ、連れて逃げればあの暴力夫に捕まる確率も増える。三人連れてなんて到底無理だ。そこで、母親は自分の実家に三人を連れて逃げて、ばらばらに里子に出すことにしたんだな。まあ、母親とすりゃあ、これ以上あんな男と暮らせば命まで取られかねないぎりぎりの選択だったろう。しかし、残された時田にすれば捨てられたも同然だ。母親への愛情が、恨みに変わったって、そういうわけだ」
「彼は、いつあの駐在所に赴任したんです?」
「三年前だ。すでに橋本家は狂った状態で生活していた。そこで、時田は橋本ミツを見た。」
ぐいと、高松は茶碗をあおる。
「時田の自供によると、初めてミツに会った時、ミツは顔を腫らしていたそうだ。それを見て、自分の母親の印象がミツに重なってしまったんだろう。」
ふん、と店主は視線を泳がせている。
「辰次を見て、ああ、こりゃあ俺だ、と。それから奴は、徹底的に橋本一家を調べ上げた。必然的に沢野のことも知れてくる。完全に、自分の家庭だと思い込んでいたような話ぶりだったぞ。昼間は、全く善良な警察官だったが、夜になると人が違ったような異常者だったんだな。」
「子供の頃に負った心の傷は…生涯癒されないと言いますよ」
高松は店主の顔を見る。煙の向こうに店主が沈んだ表情でいる。
「…細かい当日の自供もとれたぜ。時田は、二年以上に渡って、雨の日に必ず橋本家に寄り、庭の木を伝って一階の軒に上がり、辰次の部屋へ行っていた。あの日の前日、雨が降っていたのでいつものように顔を隠して辰次の元へ行くと、辰次が実は母親宛に沢野から手紙が来ていたと話した。見たいというと、辰次は素直にそれを持って来た。読んで、時田はすぐに内容が知れた。普通の奴なら、それだけ徹底的に橋本家の事を調べていたんなら当然ミツは沢野と駆け落ちしたりするとは思わない。でも、時田には、それが自分の母親の時と重なってしまったんだな。もう、いてもたってもいられなくなった。次の日、時田は夜の十時に橋本家を尋ねた。当然、沢野が来ていると思ったんだが、沢野は何故かおらず、食事を終えた一家が楽しそうに団らんしていた。兵衛と辰次と禅吉はすでに床についていた。ミツが玄関に来て挨拶する。どうしたんですかと問う。なんだかんだと言い訳して、時田は出ていこうとした。その時だ。ミツがこう言った。『一家団らんも、もう出来なくなりますし』とな。」
「…出来なくなる?」
「長男の修一が、大学が受かった事で、大学の近くに一人暮らしをするんだったんだ。ミツはもちろん、その事も言ったろうが…もう時田には聞こえちゃあいなかった。奴は、そこで狂ってしまった。」
店主が、目を閉じる。
「外に出て、すぐに雨合羽を取りに戻って、雨も降ってねえのにそれを着て、辰次のところへ行った。そして、辰次に『家族はお前を置いて出て行くぞ、家族を殺していいか』と聞いたんだ。何も分からない辰次が天罰を与えてくれと言うのを聞いて、奴はすぐに行動した。まず、階段を下って、すぐに炊事場に飛び込んだ。時計が置いてあったのは、廊下の炊事場への戸の側で、時田はそれを掴むと、一番初めにまずミツを正面から殴った。驚いた修一、篤子、タキを次々に殴り殺すと、音で起き出した兵衛の元へ行く。廊下でもみあい、寝室で兵衛を殺した。そこで、時田は玄関で逃げようとしていた康子に気付いた。康子は腰が抜けていて上手く動けないでいたらしい。そこへ奴は一撃を浴びせた。側に、辰次がいることにも気付かなかった。辰次は、大好きな康子が殴られ、死んでいくのを一部始終見ていたんだな。時田は辰次に気付くと、二階の禅吉の事も思い出した。そこで、やつは自分のお守りに付いていた鈴を辰次に渡して、もし、誰か来たら思いきりこの鈴を鳴らせと言った。辰次は茫然自失でいうとおりにする。時田は二階に上がって、禅吉を殺した。立ち上がらせて殴ったから、禅吉はどすんと倒れこんだ。沢野が最初に聞いた音はこれらしい。時田が二階の廊下に出た時、激しい鈴の音がして、時田は気をつけながら階段を降りていった。すでに沢野が出ていっていて、一階には辰次一人きりだった。奴は辰次に自分が出たら玄関の鍵をちゃんと締めるように言って、念を押す様に言ったんだ。『お前が、望んだことなんだ。』とな」
「…むごたらしい。辰次君は、一生家族を殺したのは自分だと、思い込んで生きていくでしょう」
「ああ。だから辰次は信仰を捨てたんだ。自分はサタンに魂を売ったんだってな。」
「もし、辰次君が止めていたところで、きっと彼はあの一家を殺したでしょう。彼は過去に縛られて、もう自分を失ってしまったんですからね」
「だから、指紋を消すことを忘れてしまったのか?」
「第一発見者になることを踏んでいたんでしょう。家の、どこについていようと、発見時に付けたといえば、言い訳できると思っていたんです。それなのに、血の付いた自分の指紋がついているかも分からなかった言い訳しようのない鈴を、辰次がまだ持っているというのを聞いた時、彼のわずかに残っていた平常心は、壊れてしまった。それであの時、辰次君に襲いかかってしまったんでしょう」
「凶器の時計からは、血を拭き取った跡と血のついた時田の指紋が微量だが出て来た。…ああ、あの時計、俺なら捨てると思った。しかし時田は違ったんだな。どうやら、家の状態を変えたくないと思ったらしい。…変な話だが、奴は事件が起きた事を、無かった事にしたかったって言うんだよ。だから何一つ、持ち出してはだめだと思ったって言うんだ。あれだけ殺しをやった後にだぞ?」
「…まあ…彼にしてみれば、橋本一家は、自分の家族なわけです。許せない、殺してしまえと思う反面、失いたくない、絶対に壊れてほしくないという気持ちも多分にあった。…複雑ですがね」
複雑だなあ、と高松は顔をしかめた。
「それで、辰次を自分が保護して警察を呼んだあと、やっぱり凶器を残して来たことを後悔しはじめた。事のでかさに気付いたんだな。それで、辰次と一緒に現場から持ち出すことを企てた。まんまと上手くいったわけだ。」
しばし、言葉が途切れる。オペラばかりが店内に響いていた。
「そうだ、辰次の事だが、やっぱり病院から沢野を見て、母親を取ろうとした男を許せなくて警察に電話したらしい。」
「なるほど。」
「辰次と、少しだけ話す機会があってな。『天罰』の意味を、教えてもらった。」
店主が煙を吐く。
「いつか自分に天罰が下ると、言いたかったんだと」
ああ、と店主は呟く。
「それと沢野」
「ええ」
「かみさんと今も暮らしてるんだ。あのかみさんも、ただものじゃあねえよ」
ふと、高松が真面目な顔をした。
「ところでだ。今日の本題はこれじゃあねえんだ」
「なんです、急に」
「あんたの事だ」
店主は、睨み付ける高松の視線を逃れて横を向く。
「今日こそ話してもらうぞ。課長は、もうあんたのことは無かったことにすると言っていたぜ。まあ、手柄を自分の物にするってことだがな」
「おや、すみませんでしたね。この手柄は、賭けの賞品に高松さんに差し上げるはずだったのに」
「そうだ。その代わりに、いいかげんに教えろ。あんた、どうしてあんなに、この事件の事がわかったんだ?しらばくれるといっても今日はそうはいかんぞ」
店主は非常に真面目な顔つきをしてしばらく考えこんでいた。しびれを切らして、高松が言った。
「凶器である時計を、あんたははなから探していたろう?どうしてだ、何故時計が凶器と知ったんだ!」
至極ゆっくりと、店主は口を開いた。
「高松さん。今回の事は、私がズルをしたのだと思って頂きたい」
「ずるぅ?何だそりゃあ」
「どうやら高松さんにはもう言い逃れの出来ないようですから、種明かしをしましょう。…特に私が名探偵であるとか、どうとかそういうことじゃあないんです。」
「どういうことだ、推理したのと違うというのか?」
「その通りです」
そう言って店主は立ち上がると、はたきを持って時計の棚を掃除しだした。
「…高松さんは時計をしていないから信じて頂くものが無いんだが…」
「何だ?時計が何かあるのか」
高松は、しばらく店主の背中を見ていたが、
「…そういや、おい、あんた、吉野に何か言っていたろう!」
店主は顔を半分高松に向ける。
「…そうだ、暗闇には誰か潜んでいるとか、そういうことだ!一体何なんだ?」
「高松さん、時計には、記憶があるのですよ」
高松は急に黙る。
「時計は、前の持ち主の一番強い印象を、その時計の中に残しています。この時計屋を始めた私の祖父は、それが見えた。…祖父が亡くなり、私は二十歳になって、自分がその祖父と同じ能力を持っているのに気がついたんですよ」
「…時計の、記憶?」
「ええ。」
「ば、馬鹿も休み々々言ったらどうだ!俺はあんたの逃げ口上を聞きにきたんじゃねえんだ。本当の事を…」
「残念ながら、本当です」
悲しげに、店主は高松を振り返った。
「まあ、信じてもらえると思って話したのじゃあありませんから、信じて下さいとは申しませんよ。ただ、聞くくらいはいいでしょう。暇潰しの余興くらいに思われたらいい」
「…」
「時計からは、いろんなものが見える。一番見えるのは、その時計が深く刻んだ『印象』。それから、うっすらとだが見える『最近の記憶』。これは本当に、少しだけ見える『時計の経験』。…人は、きっと気付かずにいるが本当は誰でもその印象を察知しているようで、自分に将来起こり来る『印象』を発する時計を、知らず知らずに選んでいるのです。」
「…うん?どういう事だ」
「例えば、吉野君です。彼に時計を選ばせたら、暗闇で襲われるという『印象』を持った時計を選んだ。だから私は言ったのです、『暗闇には誰かが潜んでいるから気を付けろ』と。しかしそれが、実際になってしまって、…私はそれ程深刻にとらえていなかったので、一晩気付かずにいてしまった。」
「それで朝になって、急に慌て出したのか」
「そうです。」
高松は、しばらく店主の顔を見ていて、あっと叫んだ。
「あんた、吉野の時計を見たのか!」
ふふ、と店主は笑うと、小さく頷いた。
「…ははあ…だからあんた、現場に行ってもいないのに柱の傷があったことを知ったのか!…おい、待てよ、てことは…沢野の時計も、見たってのか?」
「もちろんです。しかも、あの時計の一番の印象は、血溜まりの現場ですからね。…最初、あの時計を手に取ったとき、思わずもどしそうになりましたよ」
高松は、どうと椅子にもたれかかった。
「いや…俺はそんなこと信じる気はねえよ。…でもなあ…あんたが時計からいろいろ知れるとすりゃあ…今回の件は全部説明が付いちまうなぁ…」
「残念ながら。」
店主はにっこりと笑った。
「それじゃああれか。あんたが時計、時計と探っていたのは…」
「時計が犯人を見たかと思ったからです。それが、まさか時計が凶器だったとは…」
「あんたはあの時、辰次と一緒に店にあの時計も持ってこいと言ったんだったな。…おいおい、本当か…」
高松は頭を抱える。
「あの時計から見えたのは、私の気もふれるかと思うくらいの殺気と、血と、恐怖でした。…おかげで大事な証拠品を落して壊してしまいましたよ。正に、地獄でした。あの時計は、持ち主を時田と勘違いしてしまうくらい、狂った経験をしていました。あれは、本当に恐ろしい記憶です。」
「犯人は、あの時計で知れたのか?」
「ええ。はっきりとね。だから私はズルをしたと言うのです。江戸川乱歩だって、そいつはずるいと言いますよ。だって探偵役が推理より先に、犯人の犯行現場を見てしまうんですからね。」
高松は脱力して、ただ店主の顔ばかり見つめている。
「…おい、俺は課長に何と説明すればいいというんだ?」
「黙っていればいいでしょう。それこそ、本当は高松さんが私にあの推理を吹き込んでいて、私に言わせたとしたら如何です。手柄は貴方のものですよ」
「冗談じゃねえ。どう推理したんだって聞かれたら、俺は一つも答えられん」
高松は、信じてしまっていた。否、信じるしかなかったのだ。
「そうだ。」
店主は高松にニヤニヤと笑いながら向き直った。
「どうぞ、高松さん。ご親睦の印に、時計を一つ、差し上げましょう。さあ、選んで下さい」
高松は、げっと言って身を引く。
「…おいおい、そいつはあんたに、俺の未来がわかっちまうという事だろう?」
「おや?うーむ、そうですな、一応そうなりますか」
高松は、大きな目をむき出して睨んでいたが、急に立ち上がって、何でもいいというように手前の棚から一つ抜き出した。
「…こいつでいいや」
「ほう?」
店主はその時計を受け取ると、急にふふふと笑い出した。
「おいおい、何で笑ってるんだ」
「いやいや別に。…ふふふ。」
「どうなんだよ、何が見える?」
「そうですなぁ。足回りに注意、というところですかな」
「あしまわりぃ?」
次の日、高松は雪道で滑り、階段で段を踏み外して転び、廊下で尻持ちをつき、コソ泥を追って走っている途中、つまずいて川に落ち、合計八度転んだという。
私は蕎麦が吹き出しそうになるのをこらえるのに必死になった。
「笑うんじゃない!冬の川に落ちたんだぞ!」
「いやいや、私はね、八度のうち五度は言葉の綬縛だと思ってるんですがね」
店主は笑いながら言う。
「言葉の綬縛?」
「当たらない八卦見だって、信じていると思わず占い通りに体が動いてしまうということですよ。二度くらい転んだところでこの男はきっと、ああ、あの時計屋の言う様に今日はよく転ぶなあと思って、それからは自分で転んでいたんでしょう」
「そ、そんなことがあるか!」
高松がむきになればなるほど、私と店主と琢巳少年は笑ってしまう。
「まあ、それはさて置いても、昼間の様子では、吉野さんは無事だったんですね」
私は蕎麦を食べ終えて言った。
「今度見せてもらうといい、あいつの後頭部に、割と目立つ縫い痕があるぞ」
「へぇー」
時刻は、八時を半時過ぎていた。私と高松は揃って島中野時計店を後にした。
駅までは同じ道である。男二人で、並んで歩いた。
「どうして、今もあのお店にいらっしゃるんです?」
私は手持ち無沙汰で高松に話しかけた。
「うん?」
「捜査に協力してもらっているからですか」
高松は、少し笑った。
「島中野が、気持ちのいい男だからだよ」
奴には内緒だぞ、と笑う。
6
そうして私が島中野時計店に数多く行っているうちに、仕事は着々と停滞していた。
店主親子と高松と寿司を食べた日、家に戻ると一人の柄の悪い男が立っており、私が逃げようとしたところで先生、と声を掛けられた。よくよく見るとそれは中央社の編集者であった。
部屋に上げると彼は、時沼義正先生の挿絵はどうなりましたかと神妙に言った。私はしまったと膝を打った。締切は、今日だったのにまるきり描いていないのだ。
彼が言うには、編集部で野村時之丞に描かせるのをやめようという者がいるのだという。彼は私を買っていてくれ、ですから締切を破ったとなると、それを理由に排除しようとするかもしれないのですと、熱く訴える。私は、まさかそこまで自分を嫌う人間がいようとは、正直苦い味のようなものを感じた。たった一人の編集者とはいえ、絵で飯を食っている人間としては気持ちのいいものではなかった。
私は彼に謝って、それからすぐに寝ずに仕事を始めた。翌日昼には、何とか描き上げる事が出来た。
島中野時計店には特に連絡もせぬまま、私は溜まった仕事を片付ける為に、ほぼ一ヵ月程、店を訪ねる事をしなかった。
ある日窓の外を見たとき、私は腰が抜けるほど驚いた。
私の家は、建物の一階分づつを一人が借りるようになっており、私の部屋は二階にある。アトリエと呼ぶのも赤面する小さな部屋が私の仕事場である。その時も私は、一面がずらりと窓になっているその仕事部屋で仕事をしていた。窓の外には大きな銀杏の木が並んでいて、視界をさえぎっている。ふと、視線を窓の方に向けると、そこには見知った顔が浮かんでいたのだ。
琢巳少年である。
私は窓に駆け寄り、からりと開けて叫んだ。
「た、琢巳くん!」
「こんにちは。お元気そうでなによりです」
いつものように返答にそつはないが、場所が場所である。
「君、そこで何を?」
琢巳少年は一番低い位置にある枝に足をかけ、安定したように立って、こちらを見て笑っている。
「父と高松さんが、心配して見に行けというんです。高松さんなどは、あの男は一人暮らしだから死んだものだか知れない、なんて本気で言うんですから。」
「な、なるほどそれは心配をかけたね。…でも、それより何故君が木に登ってここにいるかを知りたいんだが。玄関から回ればいいじゃないか」
私は戸惑い顔で尋ねる。
「何度も呼び鈴を鳴らしましたよ。やっぱり聞こえてないんだ」
「え、それは…」
「だから、これはとうとう、高松さんの言う通りだなと思って、この銀杏によじ登って野村さんの部屋に入ろうと思ったんです。でも、お元気そうでなによりでした」
先達ても、大家にそれを言われたばかりであった。書留を届けに来た郵便配達夫が、留守だと言って大家の所へ行ったのである。しかしその数分前まで、私は大家と、我が家の前で話をしており、仕舞いには、大家は合鍵を使ってこの部屋まで怒鳴り込んで来たのだ。
なぜだかこの部屋は、玄関先の音が聞こえない。私は素直に、琢巳少年に詫びた。
「そうなんですか。いいえ、謝罪には及びませんよ。だってさっきまで、下で銀杏の実を山ほど拾いましたからね」
そういって、琢巳少年は紙袋を出してみせ、愛くるしく笑った。
私は琢巳少年を送りつつ、一月ぶりに島中野時計店の重い扉を開いた。
最初に私が聞いたのは、店主のひどく冷静な声だった。
「ですから、そちらの時計は買い取る訳にはいきませんな」
店主の視線が、軽くこちらに向けられた。私を認識する前の店主の目は、鋭く嫌悪の色が見てとれた。私を知ると、一瞬明るく光がさしたが、目の前の男を思ったのか、表情までは変わらなかった。
私と店主の間には、一人の男が立っていた。
その男は、ゆっくりとこちらを振り返り、そのうち全身をこちらに向けた。私はこの男を知っている。名前は…たしか。
「これはこれは。とんだところでお目にかかりましたね、先生」
安川、そう安川だ。
私は帽子を取る振りをして半分以上顔を隠したまま会釈した。この男には、正面から向かいあってやる価値はないのである。私が表情をこわばらせたのを気付いて、琢巳少年が不安げに見上げているのを感じた。
「先生が御活躍なのはいろんな雑誌で知っていますよ。…どうです?その後画集の売れ行きは?」
私はこの男の身の程知らずな皮肉に、動けないでいた。店に入ってこの男のこれ以上の非礼を受け続けるのも、この店から出てこの男から逃げ出すのも、私の自尊心が許さなかった。それよりも思うのは、何故この男がここにいるのかという事である。
「お知り合いですか」
店主が私に向けて声を掛けた。私が返事に窮する間に、
「ええ、古くからの知り合いなんですよ。いやあ、こんな店で会えるとは、どうして奇遇ですねえ」
「…君は、ここで何をしているんだ」
安川は答えず、嫌味な笑いを浮かべて、私を見下した。
「そうだ、野村先生もお口添えを頼みますよ。ここのご主人、この時計を買ってくださらないって、そう言うんです」
安川が手にしているのは、華奢な女性用の時計である。黒い皮のバンドに、螺澱で作られた文字盤が輝いている。文字盤は長方形で、ゆるく曲線を描いて、金の枠にはめられている。安川が持つには、少しばかり上等すぎる時計であった。
「とにかくうちでは、そちらを買う気はありません。」
「あんたも頑固じゃあないか!」
安川は声を尖らせた。
「別に私でなくっても、買い上げる方はいくらでもいますよ。そちらの角を曲がった辺りに、岸田さんという質屋さんがありますよ」
「その岸田さんに、言われてここへ来たんだよ」
安川は、どす黒く笑った。店主はそいつは失敬と言って安川を睨み返した。
「いや、岸田だけじゃあない。この界隈の、どの質屋でも一様に口を揃えて言っていたよ。この時計の本当の価値が分かるのは、島中野だけだ、ってね」
「…なるほど。あなたはその時計にこの界隈の質屋が付けた値を、どれも満足しなかったわけですな。こいつにはもっと価値がある、あなたがそういうとどこの店主も、じゃあ島中野の店で見てもらえ、時計の専門店しかあんたの言う価値ってやつは分からない、そう言ったんでしょう」
どうやら図星のようである。安川はにたにた笑っていたのを引き込めた。
「あなた、馬鹿にされたんですよ。そんなもの、質屋さんが分からない価値なんてうちでも分からない。それに私はそれを買う気はないんです。…いい加減に、手前でも迷惑です」
ばしん、と安川は時計をショウケエスの上に叩きつけた。店主は微動だにせずに安川の顔を見続けている。
「俺はこれでも、少しは人の心を読めるんだ。…あんたはこの時計の本当の価値を見抜いたはずだ。最初にこいつを見たとき、流石のあんたも顔色が違ったよ。本当は喉から手が出るほど欲しいはずだ、違うか!」
「勝手に人の手を喉から出さないで頂きたい。さあ、本当にお帰りください。警察を呼んだっていいんですよ」
私は、もう一度その時計を覗き込んだ。確かに、値の張る時計であることは間違いない。これならば岸田質店だって、金額を惜しんだりはしなかったであろう。浅ましいこの男は、それに飽き足らなかったのだろうか。
「ふん、あんたは警察なんか呼べるものか。何故なら…」
安川は得意げに時計を振って見せた。私は意味を分からず、店主に目をやった。
すると、店主は急に私の方に顔を向けた。
「野村さん、お知り合いというのは、お友達という事で?」
「いいえ」
私は知らず、語気を荒げていたようである。店主は驚いた顔をした。
「どうやら、野村さんにとっても迷惑なお知り合いだったようですな。…さあ、ええ、安川、さん。私はあなたが知ったような顔でその時計を振ったところで、躊躇なく警察に電話できますよ。幸いこの店には電話もありますし」
安川は少し青ざめて、表情を固めて店を出て行こうとした。その時である。
「安川さん、ご職業は?」
全員が、店主を見た。ようやくこの吐き気のする男が出て行こうというのに、何故呼び止めるような事を言うのだろう。私は店主の真意が分かりかねた。
安川は振り向き、何故か私の方を見て、そして言った。
「貿易…商だ」
貿易商。この男が?私は憎しみと笑いで奇妙な顔をした。
「ほう、貿易商。では、その『虹』をどちらで?」
みるみる安川の顔にまたいつものにたにた笑いが戻ってきた。
「やっぱりだ。あんたは御存じだ。質屋のやつらはこれがどういうものが分からなかった。本当の価値を、あんたやっぱり見抜いていたな」
「どちらで手に入れたんです?」
「…英国さ。ちょっとした知り合いがいるんだ。英国ではそこそこの値しか付かなかったらしいが、日本ではこれには附加価値が付く。それで私のところへ流れて来たんだ」
「箱は?」
「元々無かったよ。」
「それではまず、あなたが思っている程の値段は付きませんな。箱もあって附加価値というのは高値がつくんですよ」
「箱は!…ない…」
何か言いかけて、安川はやめた。
「これの元の持ち主は?分かるんですか」
「分からない、と言ったら?」
安川は答えをぼやかした。返答に慎重になっているようだ。
「聞いただけです。その時計、お貸し願えますか?」
店主が、いつもの悪戯好きの顔に戻っている。おそるおそる差し出した時計を受け取ると、店主はすぐに文字盤をひっくり返した。
「ほら、ここに番号があるでしょう。これは…二四/五〇。」
「そいつが…何だ?」
「おや、御存じない?貿易商で、この『虹』を御存じの貴方が?これは製造番号ですよ。『虹』はさるお方が、側近の五十人にだけ、日頃の感謝の意を込めて送った特注品です。当然、五十個中の何個目が誰に渡ったのかを書き残してあります。これは…二十四個目ですな。少々お待ちいただければ、すぐにどなたのか分かりますがね」
「い、いや、それには及ばない。さあ、それを返してくれ」
「どれを?どなたに?」
安川の顔色が赤黒くなった。
「何を言ってるんだ、つべこべ言わずに、さっさと返せ!」
「ええ、お返ししますとも。私から、本当の持ち主へ、ね」
「おい、おまえ…」
「私はこれを買う気はしませんよ。こんな盗品。申し上げておきますがね、附加価値というのは、売り手が少なく、買い手が多くて初めて高値がつく。そんな、東京の質屋も知らないような貴重品では、附加価値なんてこれっぽっちも付きませんよ。買い手がいないんですからね。しかもこの時計は、実質価値としては非常に低い。美しい見栄ですがね、質が究めて悪いんです。当時の技術では仕方の無いことですが。せめても外国製ならもう少し値もつきましたでしょうがねえ。これには、附加価値しかない。その附加価値すら値にならない。はっきり言えば、これは博物館がふさわしい代物なんですよ!」
安川は、店主を充分睨み付けてから、入り口へ駆け出した。しかし、安川は外には出られなかった。どしんと大きな音がして、安川の体が床にひっくり返る。入り口が急に開いたのだ。黒いコオトの男が立っていた。高松であった。
「なんだ、こいつは」
「…おや、安川さんじゃないか」
大きすぎる高松の後ろから声がした。柄の悪い、薮睨みの男がいるのをかろうじて知れた。彼はかの、中央社の編集者である。
安川は、どうみてもしくじったという顔をした。そして、何も言わずに高松を押し退け、出て行こうとする。
「高松さん、そのコソ泥をつかまえたがいい」
「なに?」
店主の声に反応するより早く、高松は安川の腕をねじり上げていた。
「い、いたたたた!は、離せ!」
「こいつぁ、何者だ?」
「さあ、知らないが、その後ろの恐い顔の方の方が御存じのようですよ。それと野村さんもね」
店主は楽しげに答えた。
「ああ、野村氏、あんたにお客だ。そこで迷っていたのを拾ったんだ」
「野村先生…あのう、これはどういうことで?安川さんが、何か?」
「君、安川とどういう知り合いだ?」
「はあ、うちの編集者です。先生、そのう…」
彼はとても気まずそうな顔をして、私を見ていた。
いくらか鈍い私にしては、珍しくその時すぐに悟った。そうか。中央社から私を締め出そうとしていた編集者というのは、安川だったのである。貿易商が聞いて呆れる。安川はそれが私に知れるのを嫌がって嘘をついたのだ。なるほど、私を締め出したいわけだ。この男から締め出される理由を、私は充分持っている。
「うち、とはどこだ?」
高松が安川を抑え付けたまま聞いた。
「はあ、中央社です。」
「なるほど、出版社にお勤めでしたか。変わった貿易商ですな。製造番号二十四…ああ、思い出しましたよ。池之幡家の五代目に渡ったんでしたな」
店主は、子供のように笑って言う。
「…池之幡家?」
「何の事です?安川さんは池之幡寿三朗先生の担当ですが…?」
池之幡寿三朗!今を時めく純文学の大家!この男は、その家からこの時計を持ち出したらしい。私は口を開けて、ただ楽し気な店主を見守っていた。
「確か作家の池之幡氏と言えば、将軍家に代々仕える名門の七代目でしたな。ほう、なるほど。そのコソ泥ときたら、家に上がり込んでそんなものを盗んで来たというわけですか。…野村さん」
急に呼ばれて、私はひどくうろたえた。
「は、はい?」
「この男の素性をご存知で?」
「いや、大して知りません…。もう五年以上も前にこの男が東京公論に勤めていた時、仕事が入り始めていた私に画集を出版するという話を持ちかけてきたのです。…しかし、土壇場になって製作費が足らなくなったと私に相当の額を出資するように言ってきましてね。いろいろと口車に乗せられました。…どうしても、その画集を出したかった私は、両親から借金をしてそれを出しました。そしてこの男にそれを渡して…それで終わりです。」
「安川が消えた?」
「その通りです。お恥ずかしい。人を見る目がなっていなかったんです。東京公論も、この事は内密に頼むと詫びを入れては来ましたが…仕事を多く斡旋してもらうことで手を打ちました。金はこの男が持ち逃げです。東京公論との契約で、この男を訴えることも出来ずに今日まできましたが…」
「ふん、窃盗容疑で逮捕だな。その、イケノハタに聞きゃあ一目瞭然だろう。おい、島中野、お前呼び出したら証人で証言しろよ」
暢気な調子で高松が言う。
「了解しました。高松さんは前科でも掘り出してくださいよ。…なんでこんな男が出版社などに出入りできるのやら…」
「すいません…人手不足でして」
柄の悪いのに低姿勢の、中央社の彼は頭を掻く。
「じゃあ、ともかく俺はこの男を連れて新宿署に行ってくる。…ああ、野村氏、後でな」
はい、と私は微笑んだ。安川は始終口を堅く噤んでいたが、高松に引きずられて出てゆく時、一瞬こちらを見た。私も、正面から安川を見る。
逸らしたのは、安川だった。私はふわりと心が軽くなるのを感じた。勝った、と思った。
私の側で、ずっと大人の会話を聞いていた琢巳少年が、不意に父親に近付いて行った。
「はい、お父さん」
「なんだい、こいつは」
「銀杏ですよ」
そうだった。琢巳少年が私を振り向いて笑顔を向ける。
店主は、にこにこと息子に渡された包みを見ながら、そこで初めて煙草に火を付けた。
一口吸って、店主は私を見た。
「こんにちは、野村さん」
私は、大きく会釈した。
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読んで下さったくっしー先生に裸土下座で頼み込んで、時計屋を描いてもらいました!!!
こんな幸せな事があっていいのか!!
描いたものを読んでもらって反応がある、ネット時代の自己実現っぷり半端ねーな!!

かっこEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE
イエァ━━━ヽ(ヽ(゚ヽ(゚∀ヽ(゚∀゚ヽ(゚∀゚)ノ゚∀゚)ノ∀゚)ノ゚)ノ)ノ━━━!!!!
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