ずっと書きたかったネタがあって、それがそろそろぐるぐる回ってバターになりそうなのでブログに叩きつけようかと思っております。
だいたい文字にする前に友人や家族におぼろげな状態のまま軽叩きwするのでほんと迷惑してると思います、長いし。

先日、「ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50」という本を買いました。
この本を書かれた料理研究家の福田里香さんがいつも私が楽しみに聞いているラジオに出てきたのが3年前。
福田さんはそこに、「フード理論」という聞き慣れない持論?駄話?を持って現れました。
この本はその、福田さんが提唱する「フード理論」をまとめたものです。
3年たって、とうとうフード理論の全容を知れるというので速攻で買ってきました。
フード理論とは、ざっくり言うと、全創作物語における「フード(食べ物、飲み物含む)」が果たす役割の解説です。
福田さんが提唱するフード三原則は、こんな感じ。
1 善人は、フードをおいしそうに食べる。
2 正体不明者は、フードを食べない。
3 悪人は、フードを粗末に扱う。
…まあご本人はロボット三原則に憧れてるからってかんじで書いてましたが、いわゆる森羅万象あらゆる映画、小説、漫画、ドラマは食べ物をそういう装置として使っている、ということです。
これの具体例を出すのに最高なのは、宮崎駿の映画です。と言われたとたんにパズーとか思い出しちゃったりしませんか?宮崎駿は、そのキャラクターの人間性を観客に伝えるために最高に上手に食べ物という小道具を使っている作家さんなんだ、という話が本書にも出てきます。ラジオだともっと言ってました。
てなわけで宮崎駿の話にスイッチする前に、とりあえず面白いのでフード理論の見出しを少しだけ。
・仲間は同じ釜の飯を食う
・少年がふたり並んで、食べ物を分け合ったら、それは親友の証 ポップコーンキャッチしていたら、なおよし
・マヌケは、フードを喉に詰まらせて、あせる
・失恋のヤケ食いはいつも好物
・絶世の美女は、何も食べない
・少女まんがの世界では、「温かいココアには、傷ついた心を癒す特別な効力がある」と信じられている
・動物に餌を与える人は善人だ 自分が食べるより先に与えるひとは、もはや聖人並みである
・末期の水は、いつも間に合わない
・たばこを手放さないひとは、心に秘密を抱える傍観者だ
こんな風に書くと、なるほどそんなシーンあったなあ!とうなずくというのに具体的なものはあまり思い出せなかったりするもんですよね。それを本書では「ステレオタイプフード」って呼んでるんですけど。
ステレオタイプフードの究極系の、食パンくわえてあわてて学校へ向かう少女、の原型がどこにあるかを探していく章の、意外な結末とかびっくりしましたwww
見出しでオチてる感じがしますが、意外に読むとさらにそこを深く掘り下げていたりして「なぜこのフードはこう扱われるのか」というところになるほど!って腑に落ちる(まさに食べたかのごとく)、創作をしている人間にとってはムムム深いな!!と思ってしまう内容なのです。
ま、基本的に私は、物語を一度楽しんだ後は、その物語の構造を分解してここがこう効いてたから後がもりあがるとか、あの登場人物がこうだからこの話は失敗したんだとか言うのが好きなので、フード理論は物語構造を理解する上ですごく面白い考え方だと思うんです。
この本を読んでいて、ぞっとしたんですけど…というほどじゃないですけど、ラジオで3年前に聞いたときはさっぱりわからなかった(その時はたしか黒澤明の七人の侍に置けるフード理論の話だったので)んですが、自分が描いた漫画が恐ろしいほどフード理論にはまっているというのを再確認しまして。
そんな話とか、宮崎駿の世界観の話、フード理論と駿の呪いがかかったようなコララインの話など、今回と次回の2回に分けて長文書きます!今回は、フード理論について。折り畳んで!!
前回のブログの記事に反応いただいた件についても最後に触れておこうかと思っております。
てなわけで、たぶん壮絶な長文になりますので、お暇でしたらどうぞ~!
[0回]
手前味噌な、無意識に発動していた自分におけるフード理論について。
わたくしが、そうっっっとう昔に描いた、
「distance」という漫画がございます。
えーと蒼炎と暁の間くらいの、ジルとハールさんの話です。
上のdistanceという文字のところにリンクをしましたのでご存じない方はご覧下さい。
話の構成としては3部構成で、その作品内の現在の二人の距離感がわかる食事シーン、いないジルを探してハールさんがシハラムの墓を訪れるシーン、雨に濡れて家に戻りスープを飲むシーン、という感じです。
最初、長いテーブルの端と端で、食卓は囲みながらも二人は同じものは食べていません。違うものを飲みジルが食べているパンケーキを、ハールさんは食べてない、いつかハールさんも食べるかもしれないけど今じゃない、というふうに、フード理論的にいう「仲間は同じ釜の飯を食う」「一緒にごはんを食べたら裏切らない」というのから、若干ずれたふうに描いております。(自分で描いてんすけどね!!解説頭悪いwwww)
これを描いた目的はほんとうにこのままの意味で、恋愛関係にまで発展してない二人が、運送業をして同じ屋根の下に住んでいる、ハールさんもジルも、ジルの父親でデインのために死んだシハラムの事が重すぎてどんなに親愛の情を感じていても軽々しく近づくことができないという関係を表現したくて、違う食器で違うものを食べてるように描きました。
これは実に本に出てくる「三度の飯は、家族の性格と関係性を描写するのに最適だ」を地で行ってます。ハールさんが白いだけのマグカップや木の器を使い、ジルが銀食器やティーサーバーを使うのは、まさに二人の人間性とか関係性と対比を表したかったから描いてるわけです。おそろしいですね!!
で、真ん中のシーンで墓の前でジルが心情を吐露してハールさんに泣きつくという展開を経て、家に戻り雨に濡れた体を拭いてジルが食卓にやってくると、ハールさんが作ったあたたかいスープが出来ていて、文句を言いつつ、離れた席もバラバラの食器も同じだけど、でも同じスープを同じ時に飲む、という展開です。
ここがまったくの無意識で描いてるんですけど、ここは間違いなく同じものを食べるからオチがつくんですよね!
ここでまたばらばらのお茶を飲んでたら物語は途中に展開を見せたのにまったく進んでいないことになるんですよね。
物語は(同人の二次作品ですら)、起承転結するということは、「動く」ってことだと思うんです。
冒頭の状態は、最後には良きにつけ悪きにつけ動いているはずなんです。奪われたものを取り戻しただけの物語ですら、結果、主人公が成長していたり、恋愛関係が強固なものになっていたり、必ず何か動いているはずなんです。
そういう意味で、そのかすかな変化を表すつもりで最後は一緒のスープを飲むことに…したんでしょう!!www
私の中にも確実に、物語におけるフードが表す独特の何かは根付いているみたいです。
それは、今まで見た数々の映画や漫画の影響なんでしょうね~。面白いものです。
あと一個、面白かったのは、シハラムのことをシラハムって描いてたことです。データ古すぎて直せないよ!!
さて、フード理論と宮崎駿について。
福田さんは宮崎駿を、類い稀なるフード演出作家と言っています。
さっきパズーと書きましたが、パズーといえばトーストに目玉焼きでハムッハムッハムッですよねwwww
宮崎駿の作品には、考えて見ると不思議なくらい、食べ物を食べるシーンが出てくるんですよね。
意識的なのか無意識的なのか、宮崎駿は食べ物を作中で食べさせる事で観客に与える影響がいかに効果的であるかを知ってるんだと思います。
まず、パズー。パズーとシータがなんとか追手から逃れて目玉焼きトーストを食べるわけですが、考えてみると飛行石や空中海賊や政府軍の追手との問題に比べると、いちいちそこ描く必要性はあるんだろうか?とも思えるわけですが、観客はあのシーンを見て、フード理論的に言う「仲間は同じ釜の飯を食う」「同じ食卓を囲んで食事をしたら裏切らない」「善人は、フードを美味しそうに食べる」を直感的に感じるんじゃないでしょうか。
あんなにうまそうに目玉焼きを食べるパズーはシータを裏切るようには見えない!!
一緒にあんなにおいしそうにご飯を食べてる二人が仲違いするわけがない!!
一見無駄に見えそうなあのシーンは実に巧妙に二人の設定を伝えているんではないかという。
しかも!パズーときたら、朝イチになにをしたか…自分の食事の前に、ハトに餌をやってるんですよ!!
「動物に餌を与える人は善人だ 自分が食べるより先に与えるひとは、もはや聖人並みである」を見て一番最初に思ったのは、私はもののけ姫のアシタカでした。アシタカはヤックルに先に食べさせてたと思う!!
本では、ナウシカの事に触れられています。チコの実という、我らはわからぬ謎の実を、ナウシカのことを姫ねえさまと慕う風の谷の子供たちが苦労して集めてナウシカに渡しますよね。「まあこんなにたくさん、たいへんだったでしょう」とかなんとか言ってたと思うんですが、この栄養価の高い非常食をナウシカのために集めた子供たちの思いがつまっているのを、まず私たちはこの会話で知ります。そして地下の空気と水の綺麗な空間に落ちたナウシカは、テトと、アスベルとこれを食べるシーンで、ナウシカはまずテトにチコの実を!!聖人!!そしてテトはパクパクと食べますが、アスベルはというと飲み込むのがやっとといった感じで愛想笑い。ここで私たちは一体何を感じるのか?ナウシカが、愛玩動物のようでもあるテトにあの大変貴重なチコの実をあげるのだということは、ナウシカが生き物の命というものを実に平等に感じていることを表現していて、作中のメッセージをさらに押し出している効果を上げているのではないか、そしてナウシカとテトは絶対に離ればなれにならない絆を持った存在なのだと。一方、アスベルとナウシカの関係は、一緒に食事はしているわけで仲間のように見えなくもないですが、食べたときの反応に差が出てしまう、これはすなわち文化の違い、ひいてはその後のアスベルとナウシカの腐海への考え方の違いを思わせるではないですか。
この「雰囲気」「暗喩」をもしも直接的にシーンやセリフで表していたら、それはそれは大変なことだと思うんですよね。あまりにあからさまにバカに教えるみたいになるかもしれないし、長ったらしいシーンが追加されてしまうかも。そういう面でも、宮崎駿はスゴイ!!フードをこんな表現にまで表せてしまうだなんて!!というわけです。
いい加減長くなったし、書いたやつ一回消えたりして心がほんとに折れそうなので、とりあえず今回はここまで。次回は、宮崎駿の描く「異界の境界線」の話と、映画「コララインとボタンの魔女」の境界線とフードの話です!
読んで下さってる人がいるかわかりませんがwwwまた書きます!!
あと、前回のブログ記事に対する反応についてです。
拍手とコメント等たくさん大変ありがとうございました!
今回の件は、きっかけは何であれ、ずっといつか書こうかなと思っていたことだったので、書けて良かったと思っています。
一応前回の続きということで、コメントへの個別のお返事は控えさせていただきますが、コメントいただいて私がどれほど泣き踊ったか、YOUTUBEにアップしたらさぞや再生数を稼げるであろうといった感じでございました。
本当にありがとうございました!
ただ、前回アップした後で、ちょっと誤解を生んでしまう書き方だったかな?と思っていたのですが、たぶん問題は「私が何を描いているか」ということではなく、「ものごとの描き方」の問題なんです。それに関しては本当に、描いている自分では気がつかない部分だったりするので、留意しようと思っています。ただ、それによって内容を変えるかどうかというと、前記事に書いたような話になると思うのです。
ちょっと省きすぎてしまったでしょうか?
省いたおかげでものすごい嬉しい感じで褒めていただいちゃったりして得しましたありがとうございました!
あとポリンキーがすげーモテてることにたいして嫉妬しましたなんだあいつ!!!wwwww
ほんとうに、ほんとうに、拍手して下さった方、あらゆるコメントを下さった全ての方に感謝しています。
前にも書きましたが、いちいちポチっとやってコメントの文章を少なくとも10分、長ければ1時間くらいは悩んで迷って書いて送信していただけることの幸福感は、他に替えられない感覚です。
これからも、好き勝手自分の思うように書いてしまうと思いますが、ぜひぜひよろしくお願いします!!
それが面白いと思って下さる方がいてくれたら、超うれしいです!!
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