とりあえず、どう始めていいのかわからないので、いいところを箇条書きで褒めていこうかと思います。
・主人公が、天才的なアホである
どんな物語であれ、主人公というのは魅力的でなければいけません。割とヒールの主人公だとしても、憎たらしさの中にも魅力がなければ基本的には駄目ではないでしょうか。
朝ドラの主人公というのは、天真爛漫であればあるほど昔から良いとされてきていると思います。が、このごちそうさんの主人公「め以子」に関しては、ちょっとどうかと思うほど「食い意地が張っている」というところが愛嬌になっていて、天真爛漫というのからするとややがめつい印象であるほどです。
私は、朝ドラの主人公が、幼少期から始まり子役がそれを演じる場合、その時期(1〜2週間)の評判がそれ以降の総合的な評判とだいたい一致すると睨んでいます。
め以子の幼少期はいちごの話で貫かれており、その後ずっと「あのいちごのめ以子だしな〜!」と語りぐさになるくらいのインパクトがありました。小さい頃から洋食屋で美味しいものをたくさん食べて育っため以子は、美味しいものを独り占めする癖があり、ちょっとちょうだいと、友達、親兄弟、大好きな祖母に言われても絶対に分け与えない子供で、それでもめてイチゴジャムを瓶ごと池に落としたりして逆に損するようなこともありました。祖母が体調を崩し病床で、め以子が美味しいと言っていたいちごを食べたがり、大変な思いでようやく手に入れたのに川に落としてしまう、というこの流れは、ひとつの物語の主人公という人間性を育む初期体験を一緒に視聴者にも経験させる大変うまい手法だと思います。しかも、そのピンチを救ってくれるのが学校で常にめ以子にちょっかいを出して来た男の子だった、というのが、その後の物語の最高のスパイスになっているところも素晴らしいです。
この幼少期が成功し、すくすく育ち、背が大きく育ちすぎてしまうボンクラで食べ物が大好きな女の子は、恋をして食べ物で成就させ、全く違う世界で食べ物で苦労し、その大好きな食べ物を奪われ、食べ物とともに人生を取り戻していくという流れが、どんな展開になってもやっぱりめ以子が気にしているのは食べ物の事なんだよなあ〜という、ボンクラ感というか、暗い展開でもジメジメしない要因になっています。いろいろめ以子のポンコツエピソードはありますが、私が好きなのは、め以子が初産の時に自分の妊娠に全く気付いておらず、急にお腹が痛くなってイタタタ…と倒れ込んだ時に夫の悠太郎が「何を食べたんや!」って心配するところですねwww なかなか第一声にそれは出ないwww
ただ、バカでポンコツなだけでは物語は展開せず、め以子は「異常な食物への好奇心から発展した、料理の創意工夫への探究心」が天才的であることが武器となっており、この物語の推進力です。誰かが言ってましたが、結局、人は天才のドラマが見たいのだ、というのをしみじみ実感します。料理がうまい、将棋がうまい、テニスがうまい、観察力が高い、項目はなんでもよくて、異才な者の物語に快感を覚えるものなんじゃないでしょうか。
・メロドラマ要素をきっちり入れる
昼メロといってもいいかもしれませんが、昔の大映ドラマ的な、大げさで見ている人の喜怒哀楽が激しくなるようなドラマというのは、下世話かもしれませんがやっぱり面白いものです。
め以子と悠太郎の出会いも、お互い「印象サイアク〜!」みたいなところ、からの〜?がお約束っぽくて面白いですね。友達が好きになっちゃうとか、一世一代の逆プロポーズをお断りされるとか、なかなか喜怒哀楽に訴えかけてくる恋愛事情です。
昼メロの特徴といえば、同性のいじわるですよ!ね!!世間的にもちょっと動揺が走るくらい、序盤の楽しい東京編とうってかわって大阪編は嫁いびり全開になりましたが、キムラ緑子さんの演技が上手すぎたのか、義姉の和枝さんのいびりっぷりは怖かったです。でも、ここに手を抜かなかったせいで後半の戦中の描写がぐっと際立ったと思います。
私は、この手の嫁姑モノ(これは小姑だけど)の解決として「距離を置く」という着地点のものを見たことがありません。実際、同居の解消こそ唯一の解決なんだろうけど、普通の構造のドラマだとそれじゃつまらないし、戦争を挟むドラマだからこそ、地方の農家に親族がいることの最大の利点があるわけで、そのための布石なので効果的です。というか、これは逆に終着点から考えられた伏線だったと考えるべきで、主人公に戦争を経て孤独と向き合うことを教える存在が必要←農家に主人公に対して厳しい存在を配置する←主人公と(本心はさておき)嫁に行った先に敵対する存在が必要←心底いけずな小姑の和枝さんという存在、という具合です。それに特に和枝さんは、女学校を卒業したばかりで言動にスキがありすぎる主人公に対する的確な指摘役としても物語上必要だったでしょう。
他の過剰なキャラクターたちの存在も、伏線的な逆算傾向は強いと思います。
ただ、その計算されたルートをたどって着地点に行き着くためには、突然優しくなったりしたら嘘っぽくなるので、最初から和枝さんの「いけず」が結構第三者視点で見ると滑稽であるということを提示したり、可哀想な出戻りの理由や結婚詐欺など、同情の余地も残しつつ、それでもやっぱり憎いと視聴者には思わせて、主人公には「それでも絶縁はしない、どんな縁であっても残しておく」という行動をさせる、というのがうまいと思います。
この伏線行動を、あざとい演出と見るか、技巧と見るかはむずかしいところですが、私は物語はちゃんと組み上げてほしいたちなので「あそこがこうくるか!」が楽しかったです。
・魅力的な登場人物
ごちそうさんには印象的で魅力的な登場人物がいっぱい出てきます。羅列しようと思ったんですがほぼ全員になるのでやめときます。
特に重要なキャラクターの筆頭は、やはり源太でしょう。
源太は小さい時にめ以子にずぶぬれになりながらいちごを届けてくれた幼馴染みです。その源太はその後すぐに引っ越してしまい、め以子の前からは消えていて、悠太郎との結婚までは出てきません。が、大阪編になってから、知らない土地で嫁いびりにあい、食べ物という心の支えすら失いかけていたところに唯一の味方として現れることになります。その後は、どんなときでもめ以子を助けて、め以子のために人生を捧げていく人になります。
め以子が満州から戻らない悠太郎を待つ最終回で、源太がめ以子に所帯でも持つか?と聞くシーンで、「お前はしゃあないの。惚れた弱みやねんから。ずーっとずーっと待つしかないの」と言うんですけど、これは完全に自分のことなんでしょうなあ…。
私はめ以子という、ある意味無神経な主人公が、結婚し、のろけ、子供を作り、自分やその家族のことでなんでも源太に頼んでお願いしているのを見ていると、なんともいえない罪悪感というかすっきりしなさを感じていました。でも、そういうところが人間くさい、善人すぎない主人公なんですが…。
他に印象深いキャラクターといえば、竹元先生と室井さんです。
竹元先生は天才的な西洋建築の建築家で、美しいものに誠実であろうとする人です。劇中でも指摘されていましたが、物理的な脳をしていてニュアンスを解さない安全一本やりの悠太郎と、材料の調達や安全面を計算するのは自分の役目でないと言い放つ竹元先生は、二人で一つの物を作ったときに補完関係になる存在です。悠太郎がピンチの時に現れて、ブレイクスルー的な行動をしていくのですが、何せそのムロツヨシさんの演技が怪演なので、なんかすごいことになっていて面白かったです。
室井さんはこの物語の観察者です。昔から食べられずに、へらへらとめ以子の周りをうろついている作家で、たまにスマッシュヒットも出すものの、大作家扱いは受けない大衆作家です。基本的に野次馬根性でどこへでも飛び出していって、関東大震災の折には自分で東京へ向かいショックを受けて帰ってきたりもします。脇役であるにも関わらず、私は案外この室井というキャラクターの担った役割は大きいと思っていて、大正時代・昭和初期はのびやかに作家活動をし、戦争が始まると書きたいものが書けなくなり、戦中は戦争発揚の物語(あの名作、おでん皇国戦記!!www)を書き時代に屈しつつも抗い、戦後はやる気を失い妻に追い出されてめ以子の元へ来て「阿呆の佛」を書くに至る、という彼の生涯は、この当時の言論事情を体現していると思うのです。先出の源太が、戦争に行った者としての苦悩を担ったように、め以子の周囲のそれぞれの人にはそれぞれの役割が与えられていると思います。
室井さんて、すごいダメな人の印象ですが、私は最後に一人になっため以子の前に最初に現れてくれたのが室井さんだったのが、本当にうまいなあと思いました。頼りにできないけどずっと明るい人、というのは、め以子の人生がどん底の時に出会う誰より、ほっとするし、自分ががんばらなきゃなと思い至る人選だと思うのです。
家族では、子供たちもいいですが、特に希子という義理の妹の存在がとてもいいです。
希子は何もできない、引っ込み思案なだめな娘だと思い込んで、姉の和枝さんにも言われ続けてきたので、め以子が来て家の雰囲気ががらりと変化していく中でドラマチックに変貌をとげていくキャラクターです。見た誰もが忘れられない焼き氷の歌声は素晴らしいですね!役者の高畑充希さんが希子役をやっている間に脚本家の森下佳子さんが彼女の別の舞台を見て、歌声の素晴らしさに「希子が歌うシーンを入れましょう」といって入れたシーンとは思えないくらい、希子の人生においても、ドラマにおいても忘れ難い名シーンになっています。悠太郎とめ以子の結婚式を画策し「私はちい姉ちゃんから人生をもらった」と言うところも泣けますなあ。
希子といえば、初恋が源太で、それをすぐに説明しないでじっと見つめるシーンが何週も続き、忘れた頃に「私、源太さんのことちょっといいなと思ってたことがある」と言い出す演出が、凄すぎて説明過多が基本の朝ドラなのに凄いなあと思いました。
こういう演出の一番びっくりしたのが、め以子の娘のふ久が、BLに目覚めるシーンです。BLて!しかも片方弟ですよ!結果、弟でない方の諸岡くんと結婚するわけですが、「久々に二人が揃うところが見れると思ったのに!」と夫になった諸岡君に言い、結婚したのにまだその見方を続けるのかと言われて「それとこれとは別!」ときっぱり言うところもかなりびっくりしましたw でも作中、BLやふ久の気持ちをはっきりと説明するわけではないので、わからずにスルーしたお年寄りとかも多いような気がします。女性脚本家特有の遊び心でしょうか…。
・神の視点を挟まない
め以子の周囲には常に人がいて、入れ替わり立ち代わりめ以子を助けてくれたりします。
でも、実はこのドラマには他のドラマに比べると珍しい、ある鉄の掟があることに気付きました。それは、たくさんの登場人物がいるけれど、主人公であるめ以子が手の届く範囲、同居なり、普段ちょくちょく会う事が出来る人の様子はわかるけれど、め以子が絶対に見ることのない場所や様子は、映像として描かれないということです。
例えば、満州へ行った悠太郎が、戦火をくぐっていたり汗をぬぐっていたりする映像は、たぶん挟もうと思えば挟むことは出来るわけです。息子の活男が海軍でがんばっている姿も、何かのひょうしに挟めます。でも、そういう「神の視点」はこのドラマには一切描かれません。えぐいくらい描かないし、普通のドラマだったら「め以子、どうしてるかなあ」なんていって東京の実家が映るのはよくある手法なのです。
それが、このドラマにはありません。神の視点が入ることで郷愁を抱かせることも効果的だとは思いますが、あの幸せな東京から大阪へ来て、絶対に戻れない(当時は嫁にいった娘が実家に戻るなんてまずありえなかったはず)という実質的な距離感の表現だろうと思われます。ちなみに、め以子が手紙を送った先はその手紙を読む人の表現として映ってたと思います。基本的に、め以子という媒体がないとその先の様子を描かないということに徹していたと思われるわけです。ただ、もしかしたら予算カットの方法なのかもしれないな、とも思います。
もしそうだとしても、それを最高に有効な方法に変換させているのがすごいなあと唸ります。
・「どうしているかな」が「救いの手」になる妙
上の項で「最高に有効な手法」と書きましたが、実はこの、神の視点が一切ないことこそ、このドラマを盛り上げていた一番のポイントなんじゃないかと思うのです。
物語が展開して環境が変わると、必ず何人かの登場人物が消えることになるのですが、絶縁という形には絶対にしないとめ以子は決めているので(台詞としてもはっきりと出てくる)あれですね、所謂「さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束」なわけです。
楽しかったり辛かったりする物語が展開している間にも、愛すべき登場人物たちが目の前から消えていて、あの人たちはどうしているのかなあと視聴者が思い再登場を祈っていると、意表をつく形で再び現れたその登場人物が、め以子にとっての突破口を開いてくれるのです。これを「アガる展開」と言わずしてなんと言いましょうか!
具体的に言えば、大人になった源太の再登場や桜子と室井、実家の両親、和枝さんや竹元先生、悠太郎の職場の藤井さんなどですが、イレギュラーな形では絶縁状態にあった悠太郎の父との縁を図らずも繋いでいて一緒に暮らすようにしたりするのもそうですし、なんだかんだいって関係が切れない悠太郎の幼馴染み・亜貴子も、そのおかげで源太の復員後の症状を理解することができます。
こういう、縁を持ったら、いない間も思いを馳せていることがいい人間関係なんだというのが、このドラマのテーマにあるような気がします。
・ぬか床という役割
朝ドラというのは必ずナレーションが入って、朝ごはんを作っていて忙しいお母さんがちょいと目を離しても戻ってこれるように語るものなんですが、このごちそうさんの場合は状況説明というのはあまりしないのです。そのかわりに、死んだ祖母の残留思念のようなぬか床が状況説明をする…はずなんですが、それにしては1つのキャラクターとして主張しすぎているのです。
和枝さんに塩をたくさん入れられたときには「気付いておくれ〜〜!」と叫び、捨てられた折には「大丈夫だよ、まだ残ってるよ」と弱々しく言い、戦争で焼かれた時には声を無くし、藤井さんの元から戻って来た時にはめ以子を呼び、生命のように主張します。この、ぬか床という物への日本人の継承的で毎日世話しなければいけないというイメージを、とても上手く使った性格付けです。
その、最も効果的なシーンは、め以子が夜に悩みながらぬか床をかき混ぜていると入るナレーションで「そうだよね。◯◯だよね。」などといって、め以子の悩みを言葉多く語らないで表現するところです。普通なら、「め以子は、◯◯が◯◯なことを不思議に感じていました。」などと表現するわけです。この差は小さいようで印象に大きく作用していると思います。
私は、視聴者が何も見ていないと仮定して作るドラマより、理解してると思って作っているドラマが好きです。そこが試聴していて一番気になるところです。でも実際は、電話で「何?◯◯埠頭で殺人!?」と言ったり「まあ!だからあの子はさっき◯◯と言っていたんだわ!」と説明したりするドラマが圧倒的に多いのです。たぶん、作るときにその方が簡単なんだと思うのです。朝ドラであれば、意図的に説明を多くしている場合も多いと思いますが、私はあえてそこで説明しすぎない作り手を支持します。
・食べ物という視点から見た戦争
そもそも食い意地の張った主人公というのをなぜ考えたのだろうと思うのですが、日本人はグルメ番組が好きというのもあると思いますが、あの大正時代の豊かでおおらかだった時代から、どんどん外堀が埋められて行くように、め以子の興味のないことが削られていき、着るもの、住む所が削られ、いつしかひたひたと食べ物(実際には主人公がというよりも、生き物全ては食べるということを削れない)が削られていくことで、戦争の深刻さがより身近な形で浮き彫りになる構造が、この時勢的にも素晴らしかったと思うのです。
どこか遠い視点で捉えた戦争というものよりも、砂糖が贅沢だからと取り上げられてしまう生活の辛さ(塀の中系の小説や映画の、あの甘いお菓子の神々しさ!)を描く方が「だから戦争はよくない」の切迫感というか、身近さが違うと思います。よく見ている間にツイッターなんかで話していたのは「なるほど、この時代を通ったおばあちゃんが、孫に腹一杯食べさせたがる理由がわかった!」という事でした。悲惨さ、シリアスさは描かなかったかもしれませんが、違う部分の戦争を描いたという意味で、評価されていいと思います。
・結局「美味しんぼ構造」は面白い
これは、半分けなしてて半分褒めてますが、食べ物ドラマを見るとき私は「結局美味しんぼか!」って言います。
この意味は、「何かトラブルが起きるが、うまい食べ物を天才が用意すると、解決する」という意味です。実際、こういう構造を持たないグルメ漫画、グルメドラマはほぼありません。
ごちそうさんは、すごく遠回しな美味しんぼ構造のドラマで、そもそもめ以子が料理がうまくなかったということもあり、最初はあまりその色は濃くなかったですが、戦後、それも最終回近くなってきてえげつないくらいの美味しんぼ無双になりました。
ただ、結局どこか、美味しんぼ構造は面白いのです。劇中なので、人の心を溶かす程うまかった、と言われればそうであるとしか視聴者は思えないですし、いとも容易く難事件が解決するので楽しいわけです。ごちそうさんの劇中当時どれくらい肉食が流通していたのかわかりませんがとても肉がよく出てきて、しかし現代的には魚よりも直感的に見ている視聴者には旨みは想像されやすかったのではないかと思います。ここも狙って肉が多かったり、洋食屋の娘だったりしたのかもしれないと思うとなんか凄い伏線の張り方だな、と思います。
首尾一貫して美味しんぼ構造になりすぎなかったのは良かったです。おむすびがうまいとか、そういう庶民的なやつも多かったのも。
書いてる間に、大変辛辣な「ごちそうさん評」を読んでしまい、心が折れかけましたが、好みの問題ということでなんとかなるんじゃないかなと思っております。
ちなみに、私は「あまちゃん」や「ごちそうさん」は朝ドラとしてはイレギュラーなタイプのドラマだと思っていて、「梅ちゃん先生」路線が大変ベーシックだと思っています。
だとすると、私は歯応えが変わった感じの、とか、ちょっと酸っぱいとか、そういう変な味のドラマが好きなので(あの「純と愛」すら偏愛できたのですから)、悪食はこちらだと理解した上で、楽しい朝ドラが始まったら見続けたいと思います!
昨今は、芸術作品かと嫌味を言われる名作「カーネーション」を見ております。なかなかの歯応えで…www