私は別に、必ず毎度毎度きちんと欠かさず朝ドラを見ているわけではないのですが、ゲゲゲの女房後くらいからそこそこ真面目に朝ドラを見るように なってきました。
まず表明しておきますと、私の好きな朝ドラは、「カーネーション」「ごちそうさん」「あまちゃん」の順ですので、それでだいたい程度を計っていただければなと思います。
さて、今回の「あさが来た」というドラマについてですが、私がわくわくして見ていたのは、時代が明治になるあたりまでがピークだったかな、と思っています。そのあたりまでは、ほんとに次回を一話づつ楽しみに見ていました。
どうしてかと自分の中で考えてみると、主人公である白岡あさが、将来偉い人になるというのは分かっているものの、江戸時代のうちは女性が活躍する時代がくるようには到底思えないので、なにをどうやったら偉い商人になっていくのか、先の見えないジェットコースターみたいな感じがとても楽し かったのです。
しかも、下手すると視聴者があさよりも大好きな、あさの姉であるはつ、そして山王寺屋の面々がどうなってしまうのかというのも、創作ゆえに先がわからずかなりひきつけられました。史実で25で死ぬはずのおはつさん全然死なないし。
炭坑の流れからの、お義父さんが亡くなる、そしてあさが洋装をガンガンしはじめるあたりでなんとなく物語が停滞していくような感じがして、ちょっと退屈だなと思っているうちに見終えた感じです。
実は、マッサンの時にも似た停滞感を感じて、その時必ず『身内の恋愛話』がまるまる1週間とかかけてやるような感じがあるんですが、あれはなんなんでしょうか決まり事?別に身内の恋愛話が嫌いなわけじゃないんですけど、もしかしてものすごい時間調整なのかな?あるいは後半のダレてくる時に 差し込むカンフル剤として用意してあるのかな?というのを毎度思ってしまうのです。
毎度の脚本家さんは違うはずなのに、何故か似た展開が現れるのは、ある種のテクニックとして脚本家さん、もしくは監督をするプロデューサーさんは用意しているのかな?と思ったりするのですが、今回のあさが来たでとても顕著だったテクニックが、『立ち聞き』です。
例えば、あさは何度雁助とうめの淡い恋を立ち聞きしたんでしょう。
かと思えば、ふゆの新次郎に対する恋心をうめは何度立ち聞きしたでしょう。
三味線の師匠の美和さんの店は、何度立ち聞きの舞台になったのか。
障子の前で、ハッ!とする登場人物たちを何人見たことでしょう。
立ち聞きには効果があります。
元来、視聴者(読者も)というのは物語の傍観者で、私達自体がそこに流れる物語を立ち聞きしているに過ぎません。私達は体を持たない存在として、 時代も、時間も、場所も、すべて自由に飛び越えて立ち聞きしていると言えます。
従って、視聴者である我々にとって、雁助とうめがお互いを好き合っているというのは、当人達以上に明確にわかっていることだったりします。雁助が別の時に言っていた呟きも、うめが別の場所で言っていた独り言も、我々は描かれさえすれば全て認識することができるからです。
しかし、その物語の登場人物には、それをすべて知る事は出来ません。彼らは物語の中では体が存在していることになっていて、仕事をしている時に別 の場所でうめの独り言を聞くことは出来ないからです。
たとえば五代様は、雁助が誰を好きだとか裏の台所で喋ったことなど、仕事をしていて知らないでしょう。関わりもそうないはずですし。
ただし、主人公や主人公に深く関わる人物は、それを知っていると『話が早い』。
主人公というのは、物語をすべて展開させていく中心の人物で、この人か、この人の側にいる人物がとにかく事情をたくさん知っていれば知っているほど、説明描写がいらなくなるのです。
なぜなら、視聴者は全てを知っているからです。
うめの恋心をあさが立ち聞きしなかったらどうでしょう。鈍感なあさはまずずっとうめの恋心には気づきません。雁助が店を辞める時、雁助が病に倒れる時、いちいちあさが「えー!うめって雁助さんが好きだったの!」と気づくドラマ的展開が必要になります。
それはもしかすると物語の停滞を招きかねないし、何より全て知っている視聴者は「まだそんなこと言ってんのかよ!みんな知ってるよ!」とイライラするかもしれません。
そこで手っ取り早く『立ち聞き』するわけです。物語はテンポよく進むのかもしれませんし、家事の合間に見ている視聴者(朝ドラは時間帯的によくこのタイプの視聴者を意識していると言われています)には最適な形なのかもしれません。
ただ、私はこの立ち聞きタイプのドラマに対して批判的です。
立ち聞きは、ものすごく即物的に便利な手法です。一度気づいてしまうと、また立ち聞きしてる!あ、また立ち聞きしてる!!って感じてしまいます。朝ドラという特殊な時間帯のドラマであることを重々考慮するとしても、なんだか視聴者として馬鹿にされているような気がしてしまうからです。
普段の自分の暮らしの中で、滅多に立ち聞きなんて起こりません。人と人は、だからこそ齟齬が起こるし、だからこそ伝わらなくてもどかしいし、だからこそ幸せに済んでいることがたくさんあります。
サトラレっていう映画じゃないですが、そんなに人は心中のことはわかりません。心の中のことがほいほいわかってしまう状態というのは、異常状態だと思うのです。
それと、朝ドラだからしょうがないということに関して言えば、先に上げた私が好きな3本の朝ドラに関してはほぼ露骨な立ち聞きは描かれていないということがあるので、それは理由にならないと言えると思います。
特に「カーネーション」は、セリフのないシーンや、言った言葉と裏腹な言葉を含ませたり、他の時間帯のドラマとしてもかなり視聴者が試される作りになっていたように思います。それでカーネーションの視聴率が悪かったというのなら問題ですが、平均視聴率19.1%、最高視聴率25%とってま すから立派なものだと思います。
あまちゃんって立ち聞きしてたんでしょうか。夏ばっぱと春子さんとかはしてたでしょうか。他は思い出せない感じです…。
なんとなく、花子とアンも立ち聞きが多かったイメージがあります。それでも高視聴率なので、やはり有効に働く手段なんだと思います。
私は、立ち聞きを全否定するつもりはありません。立ち聞きする事でぐっとドラマが展開したり厚みを増したりすることもあります。ただ、多用はどうなんだろう、と思うのです。
立ち聞きさせないで描くことこそ通常の姿であって、そこから生まれるドラマが面白く、立ち聞きは時々効果的に差し込むということでその効果を活かせると思うのです。
朝ドラの脚本ってとても大変そうだと思うのですが、ぜひこれからも胸躍るドラマを楽しみにしています。
とと姉ちゃんどうなんだろ~な~!